十訓抄 第四 人の上を誡むべき事 ====== 4の16 昔橘広相とて名誉の博士ありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、橘広相とて名誉の博士ありけり。昭宣公((藤原基経))の表奉られける勅答作けるに、「以阿衡之仁為公之仁」と書けり。 時の儒者佐世((藤原佐世))、これを見て、昭宣公の御もとに参りて、「もしは、摂政はのがれ給へるにや候ふらむ。阿衡は位なれど、摂政はせず」と申しければ、「しからざること」とて、「今は世に仕ふまじき身なれば」とて、御厩の馬どもを切り放たれたりければ、いみじくなで飼はれたる馬ども、京中に多く走りけるを、人あやめ、ののしりけるほどに、御門((宇多天皇))、聞こしめして、おほきに驚かせ給ひて、勅答かへられけるのみにあらず、広相を咎(とが)に行はるべきよし、朝議に及ぶ。 その宣命に、「勅答を作れる人、広相。阿衡を引きて、朕が本意にそむく」と書かれたる。広相、このことをやすからす思ひて、「死なむ後、犬となりて、佐世を食らはむ」と言ひて失せにけり。 そのころ、佐世が家の辺よりはじめて、大路に赤犬ども多く走り散りて、「阿衡(あかう)、阿衡」と鳴きて、人を食ひけり。時の人、おぢ騒ぎ、「阿衡食ひ」となむ言ひける。佐世がためにも、いかにも良きことはなかりけむ。そののち、贈官の宣旨下さるるとて、「贈中納言」といはれ給ひけるも、このゆゑにや。 そもそも、このこと、貞観年中のことなりければ、菅丞相((菅原道真))、いまだ御官位浅くおはしましけるに、ことに歎かせ給ひけり。明経には善渕愛成、紀伝には藤原佐世等、毛詩・尚書・漢書などの文を引きて、執論をなすといふとも、これにしたがひ給はず。「その文にかなはじ」と仰られて、菅家、御消息には、広相あやまりなき子細の旨を載せられての奥に、   大府先於施仁之令、諸卿早停断罪之宣 とぞ書かれける。広相、これを聞て悦びけり。 失せて後、ほど経て、菅家の御夢に広相来て、その悦びを申して、三つの金笏を授け奉りけり。「われ、三公にのぼるしるしなり」とぞ仰せられける。 果して旨を失はざりけり。 ===== 翻刻 ===== 昔橘広相トテ名誉博士有ケリ、昭宣公ノ表奉レ ケル勅答作ケルニ、以阿衡之仁為公之仁トカケリ、/k167 時ノ儒者佐世是ヲミテ昭宣公ノ御許ニ参テ、若ハ 摂政ハノカレ給ヘルニヤ候ラム、阿衡ハ位ナレト摂政ハセ スト申ケレハ、然サル事トテ今ハ世ニ仕フマシキ身ナ レハトテ、御厩ノ馬共ヲ切放タレタリケレハ、イミシクナ テカハレタル馬共、京中ニ多ク走リケルヲ、人アヤメノノ シリケル程ニ、御門聞シ召テ大ニ驚セ給テ、勅答カヘ ラレケルノミニ非ス、広相ヲトカニ行ハルヘキヨシ、朝儀ニ 及フ、ソノ宣命ニ、勅答ヲ作レル人広相阿衡ヲ引テ 朕カ本意ニソムクト書レタル、広相此事ヲ安カラ ス思テ、死ナム後犬ト成テ、佐世ヲクラハムト云テ失/k168 ニケリ、其頃佐世カ家辺ヨリ始テ大路ニ赤犬トモ多 ク走散テ、阿衡々々ト鳴テ人ヲクヒケリ、時ノ人 オチサハキ、阿衡クヒトナム云ケル佐世カタメニモイカ ニモヨキ事ハナカリケム、其後贈官ノ宣旨被下ト テ、贈中納言トイハレ給ケルモ此故ニヤ、抑此事貞 観年中ノ事也ケレハ、菅丞相イマタ御官位浅ク オハシマシケルニ、殊ニ歎カセ給ケリ、明経ニハ善渕愛 成、紀伝ニハ藤原佐世等毛詩尚書漢書ナトノ文 ヲ引テ、執論ヲ成ト云トモ、是ニシタカヒ給ハス、其 文ニカナハシト仰ラレテ、菅家御消息ニハ広相ア/k169 ヤマリナキ子細ノ旨ヲノセラレテノオクニ、 大府先於施仁之令諸卿早停断罪之宣 トソカカレケル、広相是ヲ聞テ悦ケリ、失後程ヘテ菅 家ノ御夢ニ、広相来テ其悦ヲ申テ、三ノ金笏ヲ授 奉ケリ、我三公ニノホルシルシ也トソ被仰ケル、果シテ 旨ヲ失サリケリ、/k170