十訓抄 第二 驕慢を離るべき事 ====== 2の5 文集一巻の凶宅の詩には驕りは物の満てるなり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 文集((『白氏文集』を指す。))一巻の凶宅の詩には、「驕(おご)りは物の満てるなり。老は数の終りなり」ともいひ、同四巻、杏為梁には、「倹なるは存し、奢(おご)れるは失すること、今目に在り」とも書きたり。 しかのみならず、呉王夫差の姑蘇台・秦始皇帝の咸陽宮、おごりを極め、うるはしきを極めたる、怨(あた)のためにも亡(ほろぼ)されて、子孫伝ふることなかりき。 源順が、「河原院賦」書かるこそ、いとあはれに思ゆれ。   強呉滅兮有荊棘 姑蘇臺之露瀼々   暴秦衰兮無虎狼 咸陽宮之煙片々 中にも、唐太宗の御時、魏徴、徳政の三つの品(しな)を定め申しける詞(ことば)に、 >焚鹿台之宝衣、毀阿房之広殿、懼危亡於峻宇、思安処於卑宮、則神化潜通、無為而治、徳於上也。 とありけるを、貞観政要に書かれぬるこそ、倹約の政(まつりごと)のあるべき様、いみじくめでたけれ。 これは帝道の一事に限らず、庶人の振舞ひに至るまで、この心を持てとなり。鹿台・阿房、殷紂・秦皇二世等の宮宝なり。 五千の上慢は、仏をだにも、何ともし奉らず。釈尊の法華を説き給ひし時、座を立ちて退けり。彼ら、罪根深重の増上慢にして、いまだ証せざるを証せりと思ひ、いまだ得ざるを得たりと思ふ。かくのごとく、失ある輩なり。くはしくは彼の経に説きたり。 不軽比丘は、会へる者ごとに、「我深敬汝等、不敢軽慢」と唱へて、杖木・瓦石をもよく忍び、罵詈放言をもとがめずして、つひにその証を得給ひぬれば、後世、菩提のためも、必ずおごれる心を離るべきなり。 ===== 翻刻 ===== 文集一巻ノ凶宅ノ詩ニハ、驕ハモノノ満ル也、老ハカスノ ヲハリ也トモ云、同四巻杏為梁ニハ、倹ナルハ存シ奢レル ハ失スルコト今在目トモ書タリ、加之呉王夫差ノ姑 蘇臺秦始皇帝ノ咸陽宮オコリヲキハメウルハシ キヲ極メタル、怨ノタメニモ亡サレテ、子孫ツタフル事 ナカリキ源順カ河原院賦書ルコソ、イト哀ニ覚 ユレ、 強呉滅兮有荊棘、姑蘇臺之露瀼々/k109 暴秦衰兮無虎狼、咸陽宮之煙片々 中ニモ唐太宗ノ御時、魏徴徳政之三ノシナヲ定申 ケル詞ニ、 焚鹿臺之宝衣、毀阿房之広殿、懼危亡於峻宇、 思安処於卑宮、則神化潜通無為而治徳於上也 ト有ケルヲ、貞観政要ニ書レヌルコソ、倹約ノ政ノ有 ヘキ様イミシク目出ケレ、此ハ帝道ノ一事ニ限ラス、 庶人ノ振舞ニ至マテ、此心ヲ持テトナリ、鹿臺阿 房殷紂秦皇二世等ノ宮宝也、五千ノ上慢ハ仏ヲ タニモナニトモシタテマツラス釈尊ノ法華ヲ説給/k110 シ時、座ヲ立テ退ケリ、彼等罪根深重ノ増上慢ニシ テイマタ証セサルヲ証セリト思、未得ヲ得ト思、如 此失アル輩也、委ハ彼経ニ説タリ、不軽比丘ハアヘルモノ 毎ニ我深敬汝等不敢軽慢ト唱テ、杖木瓦石ヲモ ヨク忍ヒ罵罵放言ヲモトカメスシテ、終ニ其証ヲ得給 ヒヌレハ、後世菩提ノタメモ必オコレル心ヲハナルヘキナ リ、/k111