十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の40 高陽院の正親町殿の東向きの御車寄せに大きなる椿桃の木あり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 高陽院の正親町殿の東向きの御車寄せに、大きなる椿桃(つばひもも)の木あり。 徳大寺左大臣((藤原実能))、参り給ひて、ある蔵人を召して、「内侍殿に見参に入れよ」と有けれは、そのよし聞こえて、「ただ今」とあれば、「かく」と申すほどに、妻戸のかたかたに居給ひて、「この木は桜か」と問はせ給ひけるに、ただうちかしこまりてもなくて、口疾く「桃の木にて候ふ」と申したりければ、大臣(おとど)うち笑みて、「棹下げて参らばや」とありける、いと恥づしかりけり。 蔵人、思ふはかりなく、人やりならず悔しがりて、「かかる木のあるより((底本「あるよく」。諸本により訂正。))してこそ、よしなきことも申し出だせ」と、あやまたぬ木をのみぞ、見るたびに悪(にく)みける。 かくのごときこと、ただうち聞くがひがみたるのみにあらず、すべて心のすくなきほども、おしはからるるなり。 その蔵人をば、高近とぞいひけるとかや。 ===== 翻刻 ===== 高陽院ノ正親町殿ノ東向ノ御車寄ニ大ナルツハキ モモノ木アリ、徳大寺左大臣参給テ或蔵人ヲ召テ、内 侍殿ニ見参ニ入ヨト有ケレハ、其由聞エテ只今トア レハカクト申程ニ、妻戸ノカタカタニ居給テ此木(コノキ)ハ桜カト 問セ給ケルニ、タタウチ畏リテモナクテ口トク桃ノ木/k75 ニテ候ト申タリケレハ、オトトウチエミテ、棹サケテ参 ラハヤト有ケル、イト恥シカリケリ、蔵人思フハカリ ナク人ヤリナラス悔シカリテ、カカル木ノ有ヨクシテコ ソヨシナキ事モ申出セト、アヤマタヌ木ヲノミソミル 度ニ悪ミケル、如此事只ウチキクカヒカミタルノミニ非 ス、スヘテ心ノスクナキ程モヲシハカラルル也其蔵人ヲハ 高近トソ云ケルトカヤ、/k76