十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の28 昔西八条の舎人なりける翁賀茂祭の日・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、西八条の舎人なりける翁、賀茂祭の日、一条東洞院の辺に、「ここは翁が見物せんずる所なり。人、寄るべからず」といふ札を、暁より立てたりければ、人、かの翁か所為とは知らず、「陽成院、物御覧ぜむとて、立てられたるなめり」とて、人、寄らざりけるほどに、時になりて、この翁、浅葱(あさぎ)かみしも着たり。扇開き使ひて、したり顔なる気色にて、物を見けり。人々、目を立てけり。 陽成院、このことを聞こしめして、件(くだん)の翁を召して、院司にて問はせられければ、「歳八十になりて、見物の志、さらに侍らぬが、今年、孫にて候ふ男の、内蔵司の小使にて、祭を渡り候ふが、あまりに見まほしくて、ただ見候はんには、人に踏み殺されぬべく覚えて、やすく見候はむために、札をば立て侍る。ただし、院の御覧ぜん由(よし)は、全く書き候はず」と申しければ、「さもあること」とて、御沙汰なくて許(ゆ)りにけり。 これ、肝太きわざなれども、かなしく支度(したく)しえたりけるこそ、をかしけれ。 ===== 翻刻 ===== 昔西八条ノトネリナリケル翁、賀茂祭ノ日、一条東洞 院ノ辺ニ、ココハ翁カ見物センスル所也、人ヨルヘカラスト 云札ヲ暁ヨリ立タリケレハ、人彼ノ翁カ所為トハ知ス、 陽成院物御覧セムトテ立ラレタルナメリトテ、人寄 サリケル程ニ、時ニ成テ此翁アサキカミシモ着タ リ扇ヒラキツカヒテ、シタリカホナル気色ニテ、物 ヲ見ケリ、人々目ヲタテケリ陽成院此事ヲ聞食 テ、件ノ翁ヲ召テ院司ニテ問セラレケレハ、歳八十ニ/k60 成テ見物ノ志更ニ侍ヌカ、今年孫ニテ候男ノ内 蔵司ノ小使ニテ祭ヲ渡候カ、アマリニミマホシクテ、 タタ見候ハンニハ人ニ歩(フミ)コロサレヌヘク覚テ、安ク見候 ムタメニ札ヲハ立テ侍ル、但院ノ御覧セン由ハ全ク書 候ハスト申ケレハ、サモアル事トテ御沙汰ナクテユリ ニケリ、是肝フトキワサナレトモ、カナシク支度シエタ リケルコソオカシケレ、スヘテ人ノ振舞ハオモラカニ/k61