十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の21 同じ院雪いとおもしろく降りたりける冬の朝・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 同じ院((一条院を指す。[[s_jikkinsho01-20|前話]]参照。なお、原拠の『枕草子』では中宮定子。))、雪いとおもしろく降りたりける冬の朝(あした)、階(はし)近く居出でさせ給ひて、雪御覧じけるに、「香炉峰の有様、いかならむ」と仰せられければ、清少納言、御前に候ひけるが、申すことはなくて、御簾を押しはりたりける、世の末まで優なる例(ためし)に言ひ伝へられける。 かの香炉峰のことは、白楽天、老ののち、この山の麓(ふもと)に一つの草堂をしめて住み給ひける時の詩にいはく、   遺愛寺鐘欹枕聴   香炉峰雪撥簾看 とあるを、御門、仰せ出だされけるによりて、御簾をは上げけるなり。 かの清少納言は、天暦の御時、梨壺の五人の歌仙の内、清原元輔女にて、やまとことばも家の風吹き伝へたりける上、心様(こころざま)わりなく優にて、折につけたる振舞ひ、いみじきこと多かりけり。 これのみならず、そのころは源氏物語作れる紫式部、ならびに赤染衛門・和泉式部・小式部内侍・小大君・伊勢大輔・出羽弁・小弁・馬内侍・高内侍((高階貴子))・江侍従・乙侍従((相模))・新宰相・兵衛内侍・中将などいひて、やさしき女房どもあまたありけり。 すべて、御門賢王にておはしけるにや、才臣、智僧より始めて、道々のたぐひにいたるまで、みなその名を得たり。 中にも、四納言と聞えしは、斉信((藤原斉信))・公任((藤原公任))・俊賢((源俊賢))・行成((藤原行成))なり、漢の四皓の世に仕へたらんも、この人々には、いかがまさらむとぞ見えける。 僧には、横川の慈恵大僧正((良源))・広沢僧正寛朝などおはしけり。大内にて五壇の御修法つとめられけるに、慈恵は不動尊となり、寛朝は降三世と現じて、少しも本尊にかはらざりけり。残りの僧はさもなかりけり。円融天皇、まさしく此事を御覧ぜられける。両僧つたはりて、この御時の人なりければ、御門も、「われ、人を得たること、延喜・天暦にも」と御自讃ありける。 まことや、この御時、一つの不思議ありける。上東門院の御方((藤原彰子))の御帳の内に、犬の子を生みたりける、思ひかけぬありがたきことなりければ、大きに驚かせ給ひて、江匡衡((大江匡衡))といふ博士に問ひければ、「これめでたき吉事なり。『犬』の字は、大の字のそばに点を付けり。その点を上に付けば『天』なり。下に付けば『太』なり。その下に子の字を書き続くれば、『天子』とも『太子』とも読まるべし。かかれば、太子生れさせ給ひて、天子に至らせ給ふべし」とぞ申しける。 その後、はたして皇子御誕生ありて、ほどなく位に即(つ)き給ふ。後一条天皇これなり。匡衡、風月の才に富めるのみならず、かかる心ばせども深かりけり。 同じ御門、生まれ給ふ時、上東門院、ことのほかに悩ばせ給ひければ、御堂の入道殿((藤原道長))さわがせ給ひて、御前より御障子を開けて走り出ださせ給ひて、「こはいかかすべき。御誦経なと重ねてすべき」と仰せられけるあひだ、御言葉いまだ終らざるに、勘解由相公有国卿((藤原有国))、いまだ若かりける時、申していはく、「御産はすでに成り候ひぬるなり。重ねて御誦経に及ぶべからず」と申すほどに、女房、走り参りて、「御産すでに成りぬ」と申しけり。こと落居の後、有国を召して、「いかにして御産なりぬとは知りけるぞ」と問はせ給ふに、「障子は子を障(さ)ふと書きて候ふに、広く開きて候ひつれば、御産成ぬと存じ候ひつる」と申しけり。 そもそも、匡衡四代に当て、中納言匡房((大江匡房))といふ人ありけり。帥(そち)になりては、江帥(がうのそち)と申しける。才智、先祖をつげり。 宇治関白((藤原頼通))、平等院を建立の時、地形の事など示し合せられむために、土御門右府((源師房))をあひともなはせ給ひたりけるに、「大門の四足、北向きならずはその便なし。大門の北向きの寺や侍る」と問はせ給ひければ、右府、覚えざるよし、答へ申されけり。ただし、匡房卿、いまだ無官にて江冠者(がうくわんじや)とてありけるを、車の尻に乗せて具せられたりけるを、「彼こそ、さるごときことは、うるせく覚えて候へ」とて、召し出だして問はれければ、申していはく、「天竺には那蘭陀寺、戒賢論師の住所、震旦には西明寺、円側法師の道場、日本には六波羅蜜寺、空也上人の建立、みなこれ北向なり」とぞ申しける。宇治殿、ことに御感ありけり。 江帥は、まためでたき相人なりけり。清隆卿((藤原清隆))、因幡守の時、院の御使として来たれり。帥、持仏堂に入りて、念誦のあひだなりければ、御使を縁にすゑて、明り障子をへだてて、これに謁す。清隆、「御使なり。奇怪のことかな」と思ひながら、数刻問答して帰参の時、障子を細めに開けて、呼び返して後、「官、正二位、中納言。命は六十六ぞ」と言ふ。果して言葉のごとし。 また、勅定によりて、法花八軸を一夜中に暗誦しけり。ただ人にはあらざりけるにや。 唐(もろこし)の后、悪しき瘡(かさ)いでき給ひて、その国の医師(くすし)、力及ばざりければ、「日本に雅忠((丹波雅忠))といふいみじき医師あり」と伝へ聞き給ひて、これを渡さるべきよし、唐の御門より申し送り給へりけるに、遣(や)り遣らずのこと、公卿の御定めありけり。人々申すやう、心々にて、定まりえざりけるに、帥民部卿経信卿((源経信))、とばかり待たれて参りて、ことの次第聞きて、「唐の后の死なむ、日本に何苦し」と、ただ一こと言はれたりければ、この意見に付きて、渡さるまじきに定まりにけり。 さて、その返牒は、匡房、承りてぞ書かれける。   双魚難達鳳池之浪   扁鵲豈入難林之雲 この句をば、和漢ともに讃めかへりけるとぞ。 昔、反正天皇、かくれ給ひて後、御弟の允恭天皇、いまだ皇子におはしける時、久しく篤疾にしづみ給へりけれども、群臣、あながちにすすめ申すによて、位に即き給ひにけり。そののち、使を新羅へ遣(つか)はして、彼の国の医師を迎へ寄せて、御病をつくろはるるに、ほどなく癒えにけり。ことに賞し給ひて、本国へ帰しやられけり。 そのためし、聞き及び給ひて、異国よりも申し送りけるにや。 ===== 翻刻 ===== 同院雪イト面白ク降タリケル冬朝、ハシ近クヰ 出サセ給テ、雪御ランシケルニ、香炉峰ノ有様イ カナラムト仰ラレケレハ、清少納言御前ニ候ケルカ、 申コトハナクテ、御スヲヲシハリタリケル、世ノ末マテ 優ナル例シニ云伝ヘラレケル、彼香炉峰ノ事ハ 白楽天老ノ後此ノ山ノフモトニ一ノ草堂ヲシメテ 住給ケル時ノ詩ニ云ク、 遺愛寺鐘欹枕聴、 香炉峰雪撥簾看/k45 トアルヲ、御門被仰出ケルニヨリテ、御スヲハアケケル也、 彼清少納言ハ天暦ノ御時梨壺ノ五人ノ哥仙ノ内、清 原元輔女ニテ、ヤマトコトハモ家ノ風吹ツタヘタリケ ルウヘ、心サマワリナク優ニテ、オリニツケタル振舞イ ミシキ事多カリケリ、是ノミナラス其頃ハ源氏物 語作レル紫式部 并 赤染衛門 和泉式部 小式部内侍 小大君 伊勢大輔 出羽辧 小弁 馬内侍 高内侍 江侍従 乙侍従 新宰相 兵衛内侍 中将ナト云テヤサシキ女 房共アマタアリケリ、スヘテ御門賢王ニテオハシケ ルニヤ、才臣智僧ヨリハシメテ、道々ノタクヒニイタル/k46 マテ、皆其名ヲ得タリ、中ニモ四納言ト聞エシハ、斉信 公任 俊賢 行成ナリ、漢ノ四皓ノ世ニツカヘタランモ、此 人々ニハイカカマサラムトソ見エケル、僧ニハ横川ノ慈恵 大僧正 広沢僧正寛朝ナトオハシケリ、大内ニテ五壇ノ 御修法ツトメラレケルニ、慈恵ハ不動尊トナリ、寛朝ハ 降三世ト現シテ、スコシモ本尊ニカハラサリケリ、残ノ 僧ハサモナカリケリ円融天皇マサシク此事ヲ御ラム セラレケル、両僧ツタハリテ此御時ノ人ナリケレハ、御 門モ我人ヲ得タル事、延喜天暦ニモト御自讃アリケ ル、/k47 マコトヤ此御時一ノ不思議有ケル、上東門院ノ御方ノ 御帳ノ内ニ犬ノ子ヲウミタリケル、思カケヌ難有事 ナリケレハ、オホキニオトロカセ給テ、江匡衡ト云博士 ニ問ケレハ、是目出御吉事也、犬ノ字ハ大ノ字ノソ ハニ点ヲツケリ、其点ヲ上ニツケハ天也、下ニツケハ太 ナリ、其ノ下ニ子ノ字ヲ書ツツクレハ、天子トモ太子トモ ヨマルヘシカカレハ太子生レサセ給テ、天子ニイタラセ給 ヘシトソ申ケル、其後ハタシテ皇子御誕生有テ、程 ナク位ニ即キ給、後一条天皇是也、匡衡風月ノ 才ニトメルノミナラス、カカル心ハセトモ深カリケリ、/k48 同御門ムマレ給時、上東門院事外ニ悩ハセ給ケレハ、御 堂ノ入道殿サハカセ給テ、御前ヨリ御障子ヲアケテ走 リ出サセ給テ、コハイカカスヘキ御誦経ナト重テスヘキ ト被仰ケル間、御詞イマタヲハラサルニ、勘解由相公有 国卿イマタワカカリケル時申云、御産ハ既ニナリ候ヌル也 重テ御誦経ニ及ヘカラスト申程ニ、女房走リ参テ御 産ステニ成ヌト申ケリ、事落居ノ後有国ヲ召テ イカニシテ御産ナリヌトハ知ケルソト問セ給ニ、障子ハ 子ヲサフト書テ候ニ、ヒロクアキテ候ツレハ、御産成ヌト 存候ツルト申ケリ、/k49 抑匡衡四代ニ当テ中納言匡房ト云人有ケリ帥ニ 成テハ江帥ト申ケル才智先祖ヲツケリ、宇治関白 平等院ヲ建立ノ時、地形ノ事ナト示シ合ラレムタメ ニ、土御門右府ヲ相共ナハセ給タリケルニ、大門ノ四足北 向ナラスハ其便ナシ、大門ノ北向ノ寺ヤ侍ト問セ給ケ レハ、右府オホエサル由答申サレケリ、但匡房卿イマ タ無官ニテ江冠者トテ有ケルヲ、車ノ尻ニ乗テ 具セラレタリケルヲ、彼コソ如然事ハウルセク覚テ 候ヘトテ、召出シテ問レケレハ、申云、天竺ニハ那蘭陀寺 戒賢論師ノ住所、震旦ニハ西明寺円測法師ノ道/k50 場、日本ニハ六波羅蜜寺空也上人ノ建立皆是北 向也トソ申ケル、宇治殿殊ニ御感有ケリ、 江帥ハ又目出相人成ケリ清隆卿因幡守ノ時、院ノ 御使トシテ来レリ、帥持仏堂ニ入テ念誦ノ間ナリケ レハ、御使ヲ縁ニスヘテ明障子ヲヘタテテ此ニ謁ス、清 隆御使也奇怪ノ事カナト思ナカラ、数刻問答シテ帰 参ノ時、障子ヲホソメニ明テヨヒ返シテ後官正二 位中納言命ハ六十六ソト云果シテ詞ノコトシ又勅 定ニヨリテ法花八軸ヲ一夜中ニ暗誦シケリ、タタ人 ニハ非サリケルニヤ、/k51 モロコシノ后アシキ瘡イテキ給テ、其国ノ医師力 及ハサリケレハ、日本ニ雅忠トイフイミシキクスシアリト 伝聞給テ、是ヲ渡サルヘキ由唐ノ御門ヨリ申送リ 給ヘリケルニ、ヤリヤラスノ事公卿ノ御定有ケリ、人々 申ヤウ心々ニテ定リエサリケルニ、帥民部卿経信卿ト ハカリ待レテ参テ事ノ次第聞テ、唐ノ后ノ死ナム 日本ニ何クルシトタタ一言イハレタリケレハ、此意見ニ付 テ渡サルマシキニ定リニケリサテ其ノ返牒ハ匡房承 テソ書レケル、 双魚難達鳳池之浪 扁鵲豈入難林之雲/k52 此句ヲハ和漢トモニホメカヘリケルトソ、 昔反正天皇カクレ給テ後、御弟ノ允恭天皇イマタ 皇子ニオハシケル時、久ク篤疾ニシツミ給ヘリケレトモ、 群臣強ニススメ申ニヨテ位ニ即給ニケリ、厥后使ヲ 新羅ヘ遣シテ彼国ノ医師ヲムカヘヨセテ、御病ヲツクロ ハルルニ、程ナク愈ニケリ、殊ニ賞シ給テ、本国ヘ帰シヤ ラレケリ其例聞及給テ、異国ヨリモ申送リケル ニヤ、/k53