十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の19 武正といふ舎人のかなしくしける子のわづらふことありて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 武正((下毛野武正))といふ舎人の、かなしくしける子のわづらふことありて、麝香(じやかう)を求めけるに、善きを尋ねえざりければ、とかく思ひまはしけれど、「さるべき人も心の底さばかりにこそ」とおしはかられて、色に出でざりけり。 思ひかねて、「侍従大納言((藤原成通))ばかりこそ、優(いう)の人におはすれ。さりとも」と思ひて、かしこに参りて、中門の方(かた)にたたずみ見入れたれば、ことのほかに古くからさびたる家の、寝殿の隅所々破(や)れたるに、空薫(そらだき)の香、心にくく香りて、まことに優なり。 とばかりありて、扇をうち鳴らして、階隠(はしかくし)の間に進む。「何ごとに来られたりけるぞ」と問ひ給ひければ、「しかじかのことの侍り」など聞こえけり。まづ世の中の物語などし給ひけるほどに、御簾の破れより見ければ、白き衣、赤袴着給ひて、うや烏帽子してぞ居給ひたりける。 出でんとしける時、紫の七重薄様に、薬包みに押し包みして投げ出だされたりし、「心に染みて優に思えし」と語り侍りける。 ===== 翻刻 ===== 武正ト云舎人ノ、悲シクシケル子ノ、ワツラフ事有テ、 麝香ヲ求メケルニ、善ヲ尋得サリケレハ、トカク思マ ハシケレト、サルヘキ人モ心ノソコサハカリニコソトヲシハカ ラレテ色ニ出サリケリ、思カネテ侍従大納言ハカリ コソ、優ノ人ニオハスレ、サリトモト思テ彼コニ参テ中 門ノカタニタタスミ見入タレハ、事外ニフルクカラサヒ タル家ノ寝殿ノスミ所々破タルニ、空タキノ香心ニ ククカホリテ、マコトニ優ナリ、トハカリ有テ扇ヲウチ/k43 鳴シテハシカクシノ間ニススム、何コトニ来ラレタリケ ルソト問給ケレハ、シカシカノ事ノ侍ナト聞エケリ、先ツ 世中ノ物語ナトシ給ケル程ニ、御スノ破レヨリ見ケレ ハ、白キ衣赤袴キ給テウヤエホシシテソ居給タリ ケル、出ントシケル時、紫ノ七重ウスヤウニ薬ツツミニ ヲシ裹シテ投出サレタリシ心ニシミテ優ニオホエシ ト語侍ケル、/k44