十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の6 蜂といふ虫もまたかかる例あり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 蜂といふ虫も、またかかる例(ためし)あり。昔、中納言和田麿((文屋綿麻呂))と聞る人おはしけり。その末に余吾大夫といふ兵者(つはもの)ありけり。年ごろ、三輪の市のかたはらに城を造りて、よそほひいかめしうして住みけるほどに、妻の敵に攻められて、城も破れ、兵もことごとくうち失はれにけり。からうして命ばかり生きて、初瀬山の奥に籠りてけり。 敵浅く求めけれども、深く用意して、笠置といふ山寺の窟(いはや)のありける中に隠れて、二三日住みけるほどに、岩の本に寺蜘蛛といふもの、網(ゐ)をかけたりけるに、大きなる蜂のかかりたりけるに、網を繰りかけて巻き殺さむとしける時に、あはれみをおこして、取り放ちて、蜂にいひけるやう、「生あるものは、命に過ぎたるものなし。前世の戒力少なくて、畜生と生れたれども、心あれば命を惜しむこと、人にかはらず。恩を重くすること、同じかるべし。われ、敵に責められてからき目をみる。身をつみて汝が命を助けむ。必ず思ひ知れ」とて、放ちやりつ。 その夜の夢に、柿の水干袴着たる男の来て言ふやう、「昼の仰せ、ことごとく耳にとまりて侍る。御志、まことにかたじけなし。われ、つたなき身を受けたりといへども、いかでかその恩を報ひ奉らざらむ。願はくば、われ申さむままにかまへ給へ。君の敵亡ぼさん」と言ふ。「誰人のかくはのたまふぞ」と言へば、「昼の蜘蛛の網にからまれつる蜂は、おのれに侍る」と言ふ。怪しながら、「いかにしてか、敵をば討つべき。われに従ひたりし者、十が九は亡び失せぬ。城もなし、かかりもなし。すべて立ち合ふべきかたもなし」と言へば、「など、かくはのたまふぞ。残りたる者も侍らむ。二三十人ばかり、かまへて語らひ集め給へ。この後ろの山に、蜂の巣四五十ばかりあり。これも皆わが同じ心の者なり。語らひ集めて、力を加へ奉らむに、などかうち得給はざらむ。ただし、その軍(いくさ)し給はむ日は、な寄せ給ひそ。もとの城のほどに仮屋を造りて、鳴りひさご、壺、瓶子(へいじ)、かやうの物を多く置き給へ。やうやうまかり集はむずれば、そこに隠れ居らむためなり。しかじか、その日よからむ」と契りて、「去ぬ」と思ふほどに、夢覚めぬ。 浮けることと思へど、いみじくあはれに思えて、夜に隠れて故郷(ふるさと)へ出でて、ここかしこに隠れ居るものどもを語らひていはく、「我れ生けりとて甲斐なし。最後に一矢射て死なばやと思ふ。弓矢の道はさこそあれ、男ども」など言ひければ、「まことにしかるべきこと」とて、五十人ばかり出でにけり。 仮屋造りて、ありし夢のままにしつらひをれば、「これは何のためぞ」と怪しみければ、「さるべきゆゑあり」とて、めでたくしつらひおきつ。 その朝に、ほのぼのと明けはなるるほどより、山の奥の方より、大きなる蜂、一二百、二三百、うち群れて、幾らともなく入り集まるさま、いとけむつかしく見えけり。 日さし出づるほどに、敵のもとへ、「これに侍り。申すべきことあり」と言へりければ、敵悦びて、「尋ね失ひて、やすからず思えつるに、いみじき幸ひなり」とて、三百騎はかりうち出でたり。勢ひを比ぶるに、物の数にもあらねば、侮りて、いつしか駆け組むほどに、蜂ども仮屋より雲霞のごとく涌き出ず。敵の人ごとに、二三十、四五十、取り付かぬはなし。目鼻ともなく、はたらく所ごとに刺し損じけるほどに、物もおぼえず。打ち殺せども、五六こそ死ぬれ、いかにもいかにもする力なくて、弓矢の行方も知らず、まづ顔をふさぎ騒ぎけるほどに、思ふさまに馳せ廻りて、敵三百余騎、時のほどにたやすく打ち殺してければ、恐れなくもとのあとに返り居にけり。 死にたる蜂、少々ありければ、笠置の後の山に埋(うづ)みて、堂を建てなどして、年ごとに「蜂の忌日」とて恩を報ひけり。 末には、はかばかしき子孫もなかりければ、この寺をば敵の孫にあたりける法師の、「祖父の敵なりける蜂の行方なり」とて、焼き失ひければ、「いみじき嗚呼(をこ)者なり」とて、奈良より放たれにけり。 すべて、蜂は短少の虫なれども、仁智の心ありといへり。 されば、京極太政大臣宗輔公((藤原宗輔))は、蜂を幾らともなく飼ひ給ひて、なに丸・か丸と名を付けて呼び給ひければ、召すにしたがひて、恪勤者などを勘当し給ひけるには、「なに丸、某(なにがし)刺して来(こ)」とのたまひければ、そのままにぞ振舞ひける。 出仕の時は、車のうらうへの物見にはらめきけるを、「とまれ」とのたまひければ、とまりけり。世には蜂飼の大臣とぞ申しける。不思議の徳、おはしける人なり。漢の蕭芝が、雉をしたがへたりけるに異ならず。 この殿の蜂を飼ひ給ふを、世の人、「無益のこと」と言ひけるほどに、五月のころ、鳥羽殿にて、蜂の巣にはかに落ちて、御前に飛び散りたりければ、人々、「刺されじ」とて逃げ騒ぎけるに、相国、御前にありける枇杷を一房取りて、琴爪にて皮をむきて、さし上げられたりければ、ある限り取り付きて、散らざりければ、供人を召して、やをら賜びたりければ、院は、「かしこくぞ、宗輔が候ひて」と仰せられて、御感ありけり。 ===== 翻刻 ===== 都ノ物語トテ人コトニシレリコマカニ書ス、蜂ト云 虫モ又カカルタメシアリ、 昔中納言和田麿ト聞ル人オハシケリ其末ニ余 吾大夫ト云兵者有ケリ年来三輪ノ市ノカタハ ラニ城ヲツクリテ、ヨソホヒイカメシウシテ住ミケル程 ニ妻ノ敵ニセメラレテ城モ破レ兵モ悉ク打失レニ/k17 ケリ、カラウシテ命ハカリ生テ初瀬山ノ奥ニ籠テ ケリ、敵アサク求ケレトモ深ク用意シテ笠置ト云 山寺ノイハヤノ有ケル中ニ隠テ二三日住ケルホトニ、 岩ノ本ニテラ蛛ト云モノ、ヰヲ懸タリケルニ、大ナル 蜂ノ懸リタリケルニ、ヰヲクリ懸テ巻コロサム トシケル時ニ、愍ミヲヲコシテ取ハナチテ蜂ニ云 ケル様、生アルモノハ命ニ過タルモノナシ、前世ノ戒 力少クテ畜生ト生レタレトモ、心アレハ命ヲ惜ム事 人ニ替ラス、恩ヲ重クスル事同カルヘシ、我敵ニ責ラ レテカラキ目ヲミル、身ヲツミテ汝カ命ヲ助ケム、/k18 必思知レトテ放チ遣ツ其夜ノ夢ニ、カキノ水旱 袴着タル男ノ来テ云様、ヒルノ仰悉耳ニトマリテ 侍ル、御志実ニ忝ナシ、我ツタナキ身ヲ受タリト云 ヘドモ争其恩ヲ報ヒ奉サラム、願ハ我申ムママニ 構ヘ給ヘ、君ノ敵亡サント云、誰人ノカクハノ給ソト云 ヘハ、昼ノ蛛ノ網ニカラマレツル蜂ハオノレニ侍ト云、 怪シナカラ如何ニシテカ敵ヲハウツヘキ、我ニ従ヒタ リシモノ、十カ九ハ亡ヒウセヌ、城モナシカカリモナシ、惣 テタチアフヘキ方モナシトイヘハ、ナトカクハノ給ソ 残リタルモノモ侍ラム二三十人斗カマヘテ語ヒ集メ/k19 給ヘ此後ノ山ニ蜂ノス四五十ハカリアリ是モ皆我 同ジ心ノモノ也、語集メテ力ヲ加ヘタテマツラムニ、ナ トカ打得給ハサラム、但其軍シタマハム日ハナヨセ給 ソ、本城ノ程ニ仮屋ヲ造テナリヒサコ、ツホヘイシ、 加様ノ物ヲ多ク置給ヘ、ヤウヤウ罷ツトハムスレハ、ソコ ニ隠レ居ラムタメナリ、シカシカ其日吉ラムト契テ イヌト思程ニ夢覚ヌウケル事ト思ヘトイミシ ク哀ニ覚テ、夜ニカクレテ古郷ヘ出テ此彼ニ隠 レオルモノ共ヲ語テ云、我生リトテ甲斐ナシ、最 後ニ一矢ヰテシナハヤト思、弓矢ノ道ハサコソアレ/k20 男共ナト云ケレハ、誠ニ然ルヘキ事トテ五十人ハカ リ出ニケリ、仮屋造リテ、アリシ夢(ユメ)ノママニシツラヒ オレハ、是ハ何ノタメソト怪ミケレハ、サルヘキ故アリ トテ目出クシツラヒヲキツ、其朝ニホノホノト明ハナル ル程ヨリ、山ノ奥ノ方ヨリ大キナル蜂一二百二三百 ウチムレテ、イクラトモナク入集ルサマ、イトケムツ カシク見ケリ、日サシ出ル程ニ、敵ノ許ヘ是ニ侍リ可 申事アリトイヘリケレハ、敵悦テ、尋失テ安カラ ス覚ツルニ、イミシキ幸也トテ、三百騎ハカリ打出 タリ、イキヲヒヲクラフルニ物ノ数ニモアラネハ、侮/k21 リテ、イツシカカケクム程ニ、蜂トモ仮屋ヨリ雲霞 ノ如クワキ出敵ノ人コトニ二三十四五十取ツカヌハ ナシ、目鼻トモナクハタラク所コトニサシ損シケル程 ニ、物モオホエス打殺セトモ五六コソシヌレ、イカニモイカニモ スル力ナクテ弓箭ノユクエモ知ス先カホヲフサキサ ハキケル程ニ、思サマニ馳廻テ敵三百余騎時ノ ホトニ輙ク打殺シテケレハ恐ナク本ノアトニ還リ 居ニケリ、死ニタル蜂少々有ケレハ笠置ノ後ノ山 ニ埋テ、堂ヲタテナトシテ、年毎ニ蜂ノ忌日トテ 恩ヲ報ケリ、末ニハハカハカシキ子孫モナカリケレハ、/k22 此ノ寺ヲハ敵ノ孫ニアタリケル法師ノ祖父ノ敵ナリ ケル蜂ノユクヱナリトテ焼失ケレハイミシキ嗚呼 者也トテ、奈良ヨリ放レニケリ、スヘテ蜂ハ短少ノ 虫ナレトモ、仁智ノ心有ト云リ、サレハ京極太政大臣宗 輔公ハ蜂ヲイクラトモナク飼給テ、ナニ丸カ丸ト名 ヲ付テヨビ給ケレハ、召ニ従テ恪勤者ナトヲ勘当 シ給ケルニハ、ナニ丸某シサシテコトノ給ケレハ其ママ ニソ振舞ケル、出仕ノ時ハ車ノウラウヘノ物見ニ ハラメキケルヲ、トマレトノ給ケレハトマリケリ世ニハ蜂 飼ノ大臣トソ申ケル、不思議ノ徳オハシケル人也漢/k23 蕭芝カ雉ヲシタカヘタリケルニコトナラス此殿ノ 蜂ヲ飼給ヲ、世人無益ノ事ト云ケル程ニ、五月ノ 比鳥羽殿ニテ蜂ノス俄ニ落テ御前ニトヒチリタ リケレハ、人々ササレシトテニケサハキケルニ相国御前 ニ有ケル枇杷ヲ一フサ取テ、琴爪ニテ皮ヲムキテ サシアケラレタリケレハ、アル限リ取リ付テ散サリケ レハ、供人ヲメシテ、ヤヲラタヒタリケレハ、院ハカシコク ソ宗輔カ候テト被仰テ御感有ケリ/k24