十訓抄 ====== 十訓抄序====== ===== 校訂本文 =====  十訓抄序 それ、世の中にある人、ことわざしげき振舞につけて、高き賤しき品を分かず、賢なるは得多く、愚なるは失多し。しかるに、今何となく、聞き見るところの、昔今の物語を種として、万の言の葉の中より、いささかその二つの跡を取りて、良き方をばこれを勧め、悪しき筋をばこれを誡めつつ、いまだこの道を学び知らざらん少年のたぐひをして、心をつくる便りとなさしめんがために、試みに十段の篇を別かちて、十訓抄と名づく。すなはち、三巻の文として、三余の窓に置かむとなり。 その詞(ことば)、和字を先として、必ずしも筆の費(つひえ)多からず。見る者、目安からんことを思ふゆゑなり。その例、漢家を次(ついで)として、広く文の道を訪(とぶら)はず。聞く者、耳近からんことを思ふゆゑなり。すべてこれを言ふに、空しき詞を飾らず、ただ実の例(ためし)を集む。道の傍らの碑の文をば、こひ願はざるところなり。 ただし、つたなき身を顧みるに、秋の蛍の光を集めずして、風月の望みに暗く、春の鶯のさへづりを学ばざれは、糸竹の曲に踈し。芸なく能欠けたり。なすことなくして、いたづらにあまたの露霜を送るばかりなり。かかるにつけては、藻塩草書き誤れる言の葉も数積り、梓弓引きみん人の嘲(あざけ)りも外れがたく思えながら、志のゆくところ、ただにはいかが止むとてならし。 そもそも、かやうの手すさみのをこりを思ふに、口業の因、離れざれば、賢良の諫(いさ)めに違(たが)ひ、仏の教へにそむけるに似たりといへども、閑(しづ)かに諸法実相の理(ことはり)を案ずるに、かの狂言綺語の戯れ、かへりて讃仏乗の縁なり。いはんや、またおごれるを嫌ひ、直しきを勧むる旨、おのづから法門の意にあひかなはざらんや。かたがた何の憚りかあらむ。 これによりて、建長四年(とせ)の冬、神無月の半ばのころ、おのづから暇のあき、心閑かなる折節にあたりつつ、草の庵を東山のふもとに占めて、蓮の台を西土の雲にのぞむ翁、念仏の暇にこれを記し終ることしかりとなん、言へり。 ===== 翻刻 =====  十訓抄序 夫世中ニアル人、コトワサシケキ振舞ニツケテ、高キ 賤キ品ヲワカス、賢ナルハ得多ク、愚ナルハ失多シ、而ル ニ今何トナク、キキ見ルトコロノ昔今ノ物語ヲタネトシ テ、万ノコトノハノ中ヨリ、聊其二ノ跡ヲ取テヨキ方 ヲハ是ヲススメ、アシキスチヲハ是ヲ誡メツツ、イマタ此 道ヲ学ヒ知サラン少年ノタクヒヲシテ、心ヲツクル 便ト成シメンカタメニ、試ニ十段ノ篇ヲ別チテ、十訓 抄ト名ク則三巻ノ文トシテ三餘ノ窓ニ置ト也、其/k3 詞和字ヲサキトシテ、必シモ筆ノツヰエ多カラス、見 ル者目安カラン事ヲ思故也、其例漢家ヲ次トシテ、広 ク文ノ道ヲ訪ハス聞者耳近カラン事ヲ思故也、惣 テ是ヲイフニ空キ詞ヲカサラス、只実ノタメシヲ 集ム、道ノカタハラノ碑ノ文ヲハコヒネカハサル所也、但 ツタナキ身ヲ顧ニ、秋ノホタルノヒカリヲアツメスシ テ風月ノ望ニクラク、春ノ鶯ノサエツリヲマナハサ レハ、糸竹ノ曲ニウトシ、藝ナク能カケタリ、ナス事 ナクシテ徒ニアマタノ露霜ヲ送ルハカリ也、カカルニ ツケテハ、モシホ草カキアヤマレルコトノハモ数ツモリ、/k4 アツサユミヒキミン人ノアサケリモハツレカタク覚エ ナカラ、志ノユク所タタニハイカカ止ムトテナラシ、抑カ 様ノ手スサミノヲコリヲ思ニ、口業ノ因離レサレハ、 賢良ノ諫ニタカヒ仏教ニソムケルニ似タリトイ ヘトモ、閑ニ諸法実相ノ理ヲ案スルニ、彼狂言綺 語ノ戯、カヘリテ讃仏乗ノ縁ナリ、況又オコレ ルヲキラヒ直シキヲススムル旨、ヲノツカラ法門ノ 意ニ相叶ハサランヤ、旁何ノ憚カアラム、依之建 長四トセノ冬神無月ノ半ノ比、ヲノツカラ暇ノア キ心閑ナル折節ニアタリツツ、草ノイホリヲ東/k5 山ノフモトニシメテ、蓮ノ臺ヲ西土ノ雲ニノソム翁、 念仏ノヒマニ是ヲシルシオハル事シカリトナンイ ヘリ、/k6