今物語 ====== 第36話 鎌倉武士入道して高野の蓮華谷に行ふありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 鎌倉武士、入道して高野の蓮華谷に行ふありけり。 この者が寝(ぬ)る所にて、夜な夜な女と物語をしける音のしければ、具したりける弟子ども、おほかた心得がたくて、便宜(びんぎ)のありけるに、ある弟子、この入道に尋ねたりければ、「さることあり。我が女の鎌倉にありしが、夜な夜なこれへ来るなり。それに何事も言ひ合はせ、また、故郷(ふるさと)のことのおぼつかなさも語り、世間のこともはからひなどしてあるなり」と言ひければ、弟子、言ふはかりなく不思議に思えて、不思議((底本「不思儀」))の余りに、空阿弥陀仏((明遍))に、ありままに申しければ、空阿弥陀仏、うち案じて、「さることも覚えあり。この女、いたく恋しく思ふにより、魂などの通ふにこそ。この定ならば、臨終の妨げにもなりなむず。急ぎ祈るべきぞ」とて、祈られけり。 ある時に、「念仏にて祈てみむ」とて、蓮華谷の聖、三四十人ばかり廻り居て、この入道を中に据ゑて、念仏を責め伏せて申したるに、入道も同じく申しけるが、空阿弥陀仏の秘蔵の本尊の、帳に入りたるがおはしましける、そのかたをつくづくとまもりて、恐ろしげに思ひて、わなわなと震ひければ、空阿弥陀仏、寄りて、「など、恐しげには思ひたるぞ」と問へば、「その御本尊の御前に、かの女房が詣で来て、我を世に恨めしげに見て候ふが、など候ふらん、あまりに恐しく」と((「と」は底本「み」。諸本により訂正))申しければ、その時、空阿弥陀仏、「門門不同八万四、為滅无明果業因、利剣即是弥陀号、一声称念罪皆除」と、高く誦せられたりければ、この女の顔の、中より二つに割れて、散るやうに見えて、失せにけり。 これをば人は見ず、ただ入道ばかり見て、いとど恐しくて、つんつんと上(かみ)へ躍りたるが、その後はもとの心になりて、行ひにけり。念仏の力の尊きこと、いとど人々、尊びあひけり。 本体の女は、つやつやさることなくて、もとのやうに鎌倉にありとぞ聞こえし。天魔のしわざか、また、女の恋しと思ひけるがゆゑにか、いと不思議なり。 ===== 翻刻 ===== 鎌倉武士入道して高野の蓮花谷におこなふあり けりこの者かぬる所にてよなよな女と物語をしけるをと のしけれは具したりける弟子ともおほかた心えかたくて ひんきのありけるにある弟子この入道にたつねたりけ れはさる事ありわか女のかまくらにありしかよなよなこれへ くるなりそれに何事もいひあはせ又ふるさとの事の おほつかなさもかたり世間の事もはからひなとして あるなりといひけれは弟子いふはかりなくふしきに覚て 不思儀の余に空阿弥陀仏にありままに申けれは空阿弥 陀仏うちあむしてさる事もおほえあり此女いたく恋しく思ふにより/s23r たましゐなとのかよふにこそこの定ならは臨終のさまたけ にも成なむすいそきいのるへきそとていのられけりある時に 念仏にて祈てみむとて蓮花谷のひしり三四十人はかり めくりゐてこの入道をなかにすへて念仏をせめふせて申 たるに入道もおなしく申けるか空阿弥陀仏の秘蔵の 本尊の帳にいりたるかおはしましけるそのかたをつくつくと まもりておそろしけにおもひてわなわなとふるひけれは 空あみた仏よりてなとおそろしけにはおもひたるそと とへはその御本尊の御前にかの女房かまうてきて我を よにうらめしけにみて候かなと候らんあまりにおそろしく み申けれはその時空阿弥陀仏門門不同八万四為滅无 明果業因利剣即是弥陀号一声称念罪皆除とた かく誦せられたりけれはこの女のかほの中より二にわれて/s23l ちるやうにみえてうせにけりこれをは人はみすたた入 道はかりみていととおそろしくてつんつんとかみへおとり たるかそののちはもとの心になりておこなひにけり念仏の ちからのたうとき事いとと人々たうとひあひけりほんたい の女はつやつやさる事なくてもとのやうにかまくらにありとそ きこえし天魔のしわさか又女の恋しと思ひけるかゆへに かいとふしきなり/s24r