今物語 ====== 第30話 嘉祥寺僧都海恵といひける人のいまだ若くて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 嘉祥寺僧都海恵といひける人の、いまだ若くて、病(やまひ)大事にて、限りなりけるころ、寝入りたる人、俄かに起きて、「そこなる文、など取り入れぬぞ」と厳しく言はれけれども、さる文無かりければ、うつつならず思えて、前なる者ども、あきれあやしみけるに、みづから立ち走りて、明かり障子を開けて、立て文を取りて見ければ、者ども、まことに不思議に思えて見るほどに、これを広げて見て、しばしうち案じて、返事書きて、さし置きて、またやがて寝入りにけり。 「起き臥しもたやすからずなりたる人の、いかなりけることにか」と、あやしみけるほどに、しばし寝入りて、汗おびただしく流れて、起き上りて、「不思議の夢を見たりつる」とて、語られける。 「大きなる猿の、藍摺(あゐずり)((底本「あゐする」。諸本により訂正))の水干着たるが、立て文たる文を持ちて来つるを、人の遅く取り入れつるに、みづからこれを取りて見つれば、一首あり。   頼めつつ来ぬ年月を重ぬれば((「重ぬれば」は底本「かきぬれば」。諸本により訂正))朽ちせぬ契いかが結ばむ とありつれば、御返事には、   心をばかけてぞ頼む木綿襷(ゆふだすき)七の社の玉の斎垣(いがき)に と書き参らせつるなり。これは、山王よりの御歌を賜はりて侍るなり」と語られければ、前なる人、あさましく不思議に思えて、「これは、ただ今、うつつに候ひつることなり。これこそその御文よ。また、書かせ給へる御返事よ」と言ひければ、正念に住して、前なる文どもを広げて見けるに、つゆ違ふことなし。 その後、病おこたりにけり。不思議なり。 ===== 翻刻 ===== 嘉祥寺僧都海恵といひける人のいまたわかくてやま ひ大事にてかきりなりける比ねいりたる人にはかにおき てそこなるふみなととりいれぬそときひしくいはれ けれともさるふみなかりけれはうつつならすおほえて まへなるものともあきれあやしみけるにみつからたちは しりてあかりしやうしをあけてたてふみをとりて見 けれは物ともまことにふしきにおほえてみる程にこれをひ ろけてみてしはしうちあむして返事かきてさしをき て又やかてねいりにけりおきふしもたやすからすなり たる人のいかなりける事にかとあやしみける程に しはしねいりてあせおひたたしくなかれておきあかりて ふしきの夢を見たりつるとてかたられけるおほきなる さるのあゐするの水干きたるかたてふみたる文をもちて/s20l きつるを人のをそくとりいれつるにみつからこれを とりて見つれは一首あり たのめつつこぬ年月をかきぬれは朽せぬ契いかかむすはむ とありつれは御返事には 心をはかけてそたのむゆふたすき七のやしろの玉のいかきに とかきまいらせつるなりこれは山王よりの御哥をた まはりて侍るなりとかたられけれはまへなる人あさましく ふしきに覚てこれはたたいまうつつに候つる事なりこれ こそその御ふみよ又かかせ給へる御返事よといひけ れは正念に住して前なる文ともをひろけてみける につゆたかふ事なしそののちやまひおこたりにけりふしき也/s21r