今物語 ====== 第10話 大納言なりける人小侍従と聞こえし歌詠みに通はれけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 大納言なりける人、小侍従と聞こえし歌詠みに通はれけり。 ある夜、物言ひて、暁帰られけるに、女の家の門を遣り出だされけるが、きと見返りたりければ、この女、名残を思ふかと思しくて、車寄せの簾(すだれ)に透きて、一人残りたりけるが、心にかかり思えてければ、供なりける蔵人に、「いまだ入りやらで、見送りたるが、ふり捨てがたきに、何とまれ、言ひて来(こ)」とのたまひければ、「ゆゆしき大事かな」と思へども、ほど経(ふ)べきことならねば、やがて走り入りぬ。 車寄せの縁の際(きは)にかしこまりて、「申せと」とは左右(さう)なく言ひ出でたれど、何と言ふべき言の葉も思えぬに、折しも、ゆふつけ鳥、声々に鳴き出でたりけるに、「あかぬ別の」と言ひける事の、きと思ひ出でられければ、   物かはと君が言ひけむ鳥の音(ね)の今朝しもなどか悲しかるらん とばかり言ひかけて、やがて走り付きて、車の尻に乗りぬ。家に帰りて、中門に降りて後、「さても、何とか言ひたりつる」と問ひ給ひければ、「かくこそ」と申しければ、いみじくめでたがられけり。「さればこそ、使ひにははからひつれ」とて、感のあまりに、知る所など賜びたりけるとなん。 この蔵人は、内裏の六位なと経て、「やさし蔵人」と言はれける者なりけり。この大納言も、後徳大寺左大臣((藤原実定))の御事なり。 ===== 翻刻 ===== 大納言なりける人小侍従ときこえし哥よみにかよ はれけりある夜物いひて暁かへられけるに女の家の 門をやりいたされけるかきと見かへりたりけれは此女/s9r 名残をおもふかとおほしくて車よせのすたれにすき てひとりのこりたりけるか心にかかりおほえてけれは ともなりける蔵人にいまた入やらて見をくりたるか ふりすてかたきに何とまれいひてことのたまひけれ はゆゆしき大事かなとおもへともほとふへき事 ならねはやかてはしり入ぬ車よせのえんのきはに かしこまりて申せととはさうなくいひ出たれと何と いふへきことのはもおほえぬにおりしもゆふつけ鳥 こゑこゑに鳴出たりけるにあかぬ別のといひける 事のきとおもひいてられけれは 物かはと君かいひけむ鳥のねのけさしもなとかかなしかるらん とはかりいひかけてやかてはしりつきて車のしりに のりぬ家にかへりて中門におりて後さても何とか/s9l いひたりつるととひ給ひけれはかくこそと申けれは いみしくめてたかられけりされはこそつかひにははから ひつれとて感のあまりにしる所なとたひたりけると なん此蔵人は内裏の六位なとへてやさしくら人 といはれけるものなりけりこの大納言も後徳大寺 左大臣の御事なり/s10r