今物語 ====== 第1話 大納言なりける人内へ参りて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 大納言なりける人、内へ参りて、女房あまた物語りしける所にやすらひければ、この人の扇(あふぎ)を手ごとに取りて見けるに、弁の姿しける人を書きたりけるを見て、この女房ども、「鳴く音(ね)な添へそ野辺の松虫」と口々にひとりごちあへるを、この人聞きて、「をかし」と思ひたるに、「奥の方(かた)より、ただ今、人の来たるなめり」と思ゆるに、「これはいかに。『鳴く音な添へそ』と思ゆるは」と知りたり顔に言ふ音(おと)のするを、この今来たる人、しばしためらひて、いと人にくく、優なる気色(けしき)にて、「源氏の下襲(したがさね)の尻は、短(みじか)かるべきかは」とばかり、忍びやかに答ふるを、この男、あはれに心にくく思えて、「ぬしゆかしきものかな。誰ならん」とうちつけに浮き立ちけり。 堪ふべくも思えざりければ、後にはさらぬ人に尋ねければ、「近衛院の御母((美福門院得子))、ひがごと、かうの殿の御局」とささやきければ、いでや、理(ことわり)なるべし。 その後、たぐひなき物思ひになりにけり。   おほかたの秋の別れも悲しきに鳴く音な添へそ野辺の松虫 ===== 翻刻 ===== 大納言なりける人内へまいりて女房あまた物かたり しける所にやすらひけれはこの人のあふきを手こと に取てみけるに弁のすかたしける人を書たり けるをみてこの女房ともなくねなそへそ野辺の 松むしとくちくちにひとりこちあへるをこの人ききて おかしとおもひたるにおくのかたよりたたいま人のきたる なめりとおほゆるにこれはいかになくねなそへそとおほ ゆるはとしりたりかほにいふをとのするをこのいま きたる人しはしためらひていと人にくくいふなるけし きにて源氏のしたかさねのしりはみしかかるへきかはと はかりしのひやかにこたふるをこのおとこあはれに 心にくくおほえてぬしゆかしき物かなたれならんとうち つけにうきたちけりたふへくもおほえさりけれは/s5l 後にはさらぬ人にたつねけれは近衛院の御はは ひか事かうのとのの御つほねとささやきけれはいてや ことはりなるへしそののちたくひなきものおもひ になりにけり おほかたの秋の別もかなしきに鳴ねなそへそ野辺の松虫/s6r