発心集 ====== 第八第13話(101) 或る上人、生ける神供の鯉を放ち、夢中に怨みらるる事 ====== ===== 校訂本文 ===== ある聖、船に乗りて、近江の湖((琵琶湖))を過ぎけるほどに、網船に大きなる鯉を捕りて、持(も)て行きけるが、いまだ生きてふためきけるを、あはれみて、着たりける小袖を脱ぎて、買ひとりて放ちけり。 「いみじき功徳作りつ」と思ふほどに、その夜の夢に、白狩衣着たる翁一人、われを尋ねて来たり。いみじう恨たる気色(けしき)なるを、あやしくて、問ひければ、「われは、昼、網に引かれて、命終らんとしつる鯉なり。聖の御しわざの口惜しく侍れば、そのこと申さむとてなり」と言ふ。聖言ふやう、「このことこそ心得ね。悦びこそ言はるべきに、あまさへ、恨みらるらむ、いと当らぬことなり」と言ふ。翁いはく、「しか侍り。されど、われ、鱗(うろくづ)の身を受けて、得脱の期を知らず。この湖の底にて、多くの年を積めり。しかるを、またまた((「たまたま」の誤りか。))賀茂の供祭になりて、『それを縁として、苦患をまぬかれなん』とつかまつりつるを、さかしきことをし給ひて、また畜生の業を延べ給へるなり」と言ふとなむ、見たりける。 ===== 翻刻 ===== 或上人放生神供鯉夢中被怨事 或聖船ニノリテ近江ノ湖ヲスギケル程ニ網船ニ 大キナル鯉ヲトリテモテ行ケルガ。イマダ生テフ タメキケルヲ哀ミテ着タリケル小袖ヲヌギテ買 トリテ放ケリ。イミジキ功徳ツクリツト思フ程ニ 其夜ノ夢ニ白狩衣キタル翁ヒトリ我ヲ尋テ来 イミジフ恨タル気色ナルヲアヤシクテ問ケレバ/n26l 我ハ昼アミニヒカレテ命オハラントシツル鯉ナリ。 聖ノ御シワザノ口惜ク侍レバ其事申サムトテナ リトイフ。聖云様コノ事コソ心得ネ悦ヒコソイハル ベキニ。剰ヘ恨ラルラム最アタラヌ事ナリト云。翁 イハク。シカ侍リサレド我鱗ノ身ヲウケテ得脱 ノ期ヲシラズ。此湖ノ底ニテオホクノ年ヲツメリ。 シカルヲマタマタ賀茂ノ供祭ニナリテ。ソレヲ縁ト シテ苦患ヲマヌカレナント仕リツルヲ。サカシキ 事ヲシ給テ又畜生ノ業ヲノヘ給ヘルナリト云ト ナム見タリケル/n27r