発心集 ====== 第八第1話(89) 時料上人、隠徳の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、筑前国に、時料((標題「トキレウ」。本文「時ノ料」))と名付けたる聖ありけり。府(こふ)の辺に歩(あり)きて、人の家に至りて物を乞ふとて、必ず「時料」とばかり言ひて、経も読まず、仏号をも唱へず。いはんや、そのほかのこと、一言も言はざりければ、やがて、かく名を付けたるなり。朝夕つねに見ゆれば、見合ふにしたがひて物など取らすれど、たしかにそことは跡とめたりといふこと、知れる人なし。 その時に、府官の中に、ことにこれをあはれむ男(をのこ)ありけり。心に思ふやう、「この聖のありさまこそ、いとおぼつかなけれ。さりとも、跡を隠せる所なからんや。いかにも、その徳ある者にこそ。これを見あらはして、深く縁を結ばん」と思ひて、物乞ひ廻りて帰りけるを、見隠れに行く間に、はるかに山深く入りて、けはしき谷の奥に、荒れたる神の社ありける中にはひ入りぬ。 いとめづらかに思えて、隠れ居て聞けば、日暮方より夜もすがら、もろもろの罪障を懺悔す。夜中すぎ程より法華経を読む。その声、いと貴くて、涙も止まらず。 夜明けて後、男、帰らんとする時、人のある気色をさとりて、聖、とかく求め歩(あり)きけるほどに見付けられぬ。すなはち、袖に取り付きて、大きに悲しみていはく、「われ、このたび生死を離れんと思ふに、この志を人に知られなば、魔縁も力を得、信施(しんせ)もことに重かるべし。ことにふれて障りあるべきゆゑに、われ、深く徳を隠して、年ごろこの谷に住めども、鳥獣(とりけだもの)よりほかには、さらにわれを知る者なし。しかるを、なんぢ、今われを見あらはすは、すでに生々世々の仇敵(あたかたき)なり。さらに、なんぢを許すべからず。ここにして、もろともに命を捨つばかりぞ」と言ひて、泣もだうる声、谷を響かす。涙流して袖をしぼるばかり濡れぬ。 この男、恐れをののきて言ふやう、「われ、聖の徳を貴むにより、信を発(おこ)して、尋ね来たる。これ、何の咎(とが)かある。われ一人は、何ばかりの咎かあらん。願はくは、今日の咎許し給へ。永く妻子(さいし)にもこのことを散らさじ。仏天、必ず照らし給ふべし」と言ふ。聖のいはく、「一人が知れるとても、本意(ほい)にはあらねども、なんぢ、人よりも信心深し。しかれば、いかがはせん。口より外へ出だすべからず。今日より後、深くあひ頼まん」など、互ひにさまざま契りを結びて帰りにけり。 その後、この男、忍び人に隠れて、時料とぶらひければ、里へ出づることもなくて、思ふごとく往生を遂げたりけりとぞ。かねて、死期(しご)を知りて、この男に告げたりけるによりて、その臨終の貴かりしことなど、後に人に語りける。 ある人いはく、「濁世の行者は、みづから徳を隠し、賊国にありて、宝をまうくるがごとくすべし。そのゆゑは、今の世は、天魔・盗人満ち満ちて、人の善根をうかかひ妨ぐ。しかれども、悟り深く徳ある人は、諸天の擁護(おうご)ひまなくして、天魔、そのたより得ることなし。たとへば、人の門つよくさし、兵多く守りて、悲しみなきがごとし。もし、わがごとく、懈怠・無智の者、たまたま勤むる功徳は、貧しき家に宝多からんがごとし。心城(しんじやう)囲ひあだにして、善神の守護し給ふもなし。ただ、外相(げさう)をよそにし、その徳を深く隠して、しらせざらんにはしかず。かの金(こがね)をおどろにつつみ、宝珠を土に埋(うづ)むがごとし。ただ、たとひ徳を隠すとも、みつからおごる心あらば、また益(えき)なし。天魔はよく憍慢を便りとす。たとへば、盗賊の中人(ちゆうじん)を用ゆるがごとし。しかるを、末世の比丘、争ひ深く、名利に惑へるゆゑに、みづから無き徳を称す。妄語の中にすぐれたる重罪なり。何ぞいはんや、身にある徳をあげ、人の称賛するを悦ぶことは万人の習ひなり。妄語にあらずといふとも、その咎、なほ軽からず。もし、まことに後世を思はん人は、一人ありて、わが身になき徳を讃歎せば、これを恐れ驚くこと、盗殺(たうせつ)の無実(ぶしつ)を負ふがごとくすべし。身の毛よだつばかりおののき、心神やすからずして、すなはち三宝を念ぜよ。つれなく、驚く心なくは、その咎、なほ遁れがたし」。 ===== 翻刻 ===== 発心集第八 鴨長明撰 時料上人隠徳事 中来筑前国ニ時料トナヅケタル聖アリケリ。府ノ辺 ニアリキテ。人ノ家ニイタリテ物ヲ乞トテ必ズ時料 トバカリ云テ経モヨマズ。仏号ヲモ唱ヘス況ヤ其外ノ 事一言モイハザリケレバ。軈カク名ヲツケタル也。朝夕 ツネニ見ユレバ見合ニ随テ物ナド取スレド。タシカニ ソコトハ跡トメタリト云事シレル人ナシ。其時ニ府官 ノ中ニ殊ニ是ヲアハレム男アリケリ。心ニ思様此聖 ノ有様コソイト覚束ナケレ。サリトモ跡ヲカクセル/n3l 所ナカランヤ。イカニモ其徳アル者ニコソ。是ヲ見アラ ハシテ深ク縁ヲ結ント思テ物コヒ廻テ帰リケル ヲ。見カクレニ行間ニ遥ニ山深ク入テ。ケハシキ谷ノ奥 ニアレタル神ノ社アリケル中ニハ入ヌ。イトメヅラカニ 覚ヘテ隠居テ聞ケバ。日暮方ヨリ夜モスガラ諸ノ罪 障ヲ懺悔ス。夜中スギ程ヨリ法華経ヲヨム。其声イ トタウトクテ涙モトマラズ。夜アケテ後男帰ント スル時。人ノアル気色ヲサトリテ聖トカク求アリキ ケル程ニ見ツケラレヌ。即袖ニトリツキテ大ニ悲ミ テ云。我此度生死ヲ離ント思ニ此志ヲ人ニシラレ/n4r ナハ魔縁モ力ヲ得信施モ殊ニオモカルベシ。事ニフ レテ障アルベキ故ニ我深ク徳ヲカクシテ年比此 谷ニ住トモ鳥獣ヨリ外ニハ更ニ我ヲ知物ナシ。 然ルヲ汝今我ヲ見アラハスハ既ニ生々世々ノア タカタキナリ。更ニ汝ヲユルスベカラズ。爰ニシテモ ロトモニ命ヲ捨バカリゾト云テ泣モタウル声谷 ヲヒヒカス。涙ナカシテ袖ヲシホル計ヌレヌ。此男恐ヲ ノノキテ云様我聖ノ徳ヲタウトムニヨリ信ヲ発 テ尋来ル是何ノ咎カアル。我独ハ何計ノトカカア ラン願ハ今日ノ咎ユルシ給ヘ。永ク妻子ニモ此事/n4l ヲ散サジ。仏天カナラズ照シ給ベシト云。聖ノ云一 人ガシレルトテモ本意ニハアラネドモ。汝人ヨリモ 信心フカシ。然者イカカハセン口ヨリ外ヘ出スベカラス。 今日ヨリ後深クアヒタノマンナド互ニサマサマ契ヲ結 テ帰ニケリ。其後此男シノビ人ニカクレテ。時料ト フラヒケレハ。里ヘ出ル事モナクテ思フゴトク往生 ヲ遂タリケリトゾ。兼テ死期ヲ知テ此男ニツゲ タリケルニヨリテ。其臨終ノタウトカリシ事ナド 後ニ人ニカタリケル。或人云濁世ノ行者ハ自ラ徳 ヲカクシ賊国ニ有テ宝ヲマウクルガ如クスベシ/n5r 其故ハ今ノ世ハ天魔盗人ミチミチテ。人ノ善根ヲウ カカヒサマタク。然レトモ悟フカク徳アル人ハ諸天 ノ擁護ヒマナクシテ天魔其タヨリ得事ナシ。タト ヘバ人ノ門ツヨクサシ兵オホク守リテ悲ナキガ如シ。 若我ゴトク懈怠無智ノ者タマタマツトムル功徳ハ貧 キ家ニ宝オホカランガ如シ。心城カコヰアダニシテ善 神ノ守護シ給モナシ。只外相ヲヨソニシ。其徳ヲ深ク カクシテ。シラセザランニハシカズ。彼金ヲヲドロニ裹 ミ宝珠ヲ土ニ埋ガ如シ。但縦徳ヲカクストモ自 ヲゴル心アラバ又益ナシ。天魔ハヨク憍慢ヲタヨ/n5l リトス。タトヘバ盗賊ノ中人ヲ用ユルガ如シ。然ヲ末世ノ 比丘アラソヒ深ク名利ニマドヘル故ニ。自ラナキ徳ヲ称 ス。妄語ノ中ニスグレタル重罪ナリ。何況ヤ身ニアル徳 ヲアゲ。人ノ称賛スルヲ悦事ハ万人ノ習ナリ。妄語ニ アラズト云トモ其咎ナヲ軽カラズ。若誠ニ後世ヲ思 ハン人ハヒトリ有テ我身ニナキ徳ヲ讃歎セバ是ヲ 恐レ驚ク事盗殺ノ無実ヲ負ガコトクスベシ。身ノ毛 ヨダツバカリオノノキ。心神ヤスカラズシテ即三宝ヲ 念ゼヨ。ツレナク驚心ナクハ其咎ナヲ遁レガタシ/d6r