発心集 ====== 第七第9話(84) 恵心僧都、母の心に随ひ遁世の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 恵心僧都((源信))、年たかくわりなき母を持ち給ひけり。 志は深かりけれども、いとこともかなはねば、思ふばかりにて、孝養(かうやう)することもなくて、過ぎ給ひにけるほどに、しかるべき所に仏事しける導師に請ぜられて、布施など多く取り給ひたれば、いとうれしくて、すなはち母のもとへあひ具して、渡り給へり。 この母、世のわたらひ、絶え絶えしきさまなり。「何に悦ばれん」と思ふほどに、これをうち見て、うち後ろ向きて、さめざめと泣かる。いと心得ず、「君、嬉しさのあまりか」と思ふ間に、とばかりありて、母の言ふやう、「法師子を持ちては、われ、後世を助けらるべきこととこそ、年ごろは頼もしくて過ぎしか、まのあたり、かかる地獄の業を見るべきことかは。夢にも思はざりき」と言ひもやらず泣きにける。 これを聞きて、僧都、発心して、遁世せられける。ありがたかりける母の心なり。 ===== 翻刻 ===== 恵心僧都随母心遁世事 恵心僧都年タカクワリナキ母ヲモチ給ケリ。志ハ 深カリケレドモ。イト事モカナハネバ思フ計ニテ孝 養スル事モナクテ過給ニケル程ニ。可然所ニ仏事 シケル導師ニ被請テ布施ナト多取給タレハ。イ トウレシクテ即母ノ許ヘ相具シテワタリ給ヘリ。此 母世ノワタラヒタヘタヘシキサマナリ。何ニ悦バレント思 フホドニ是ヲ打見テ。ウチウシロムキテサメサメトナ/n20r カルイト心得ズ。君ウレシサノアマリカト思間ニ。トバカ リアリテ。母ノ云様。法師子ヲ持テハ我後世ヲタ スケラルベキ事トコソ年来ハタノモシクテ過シカ。 マノアタリカカル地獄ノ業ヲ見ルベキ事カハ。夢ニ モ思ハザリキト云モヤラス泣ニケル。是ヲ聞テ僧 都発心シテ遁世セラレケル有難カリケル母ノ心也/n20l