発心集 ====== 第六第6話(68) 侍従大納言、幼少の時、験者改請を止むる事 ====== ===== 校訂本文 ===== 侍従大納言成通卿((藤原成通))、そのかみ九歳にて、わらはやみし給ひけり。 年ごろ祈りけるなにがし僧都とかやいふ人を呼びて、祈らせけれど、かひなく発(おこ)りければ、父の民部卿((藤原宗通))、ことに歎き給ひて、傍らにそひ居て、見あつかひ給ふ間に、母君と言ひ合はせつつ、「さりとて、いかがはせむ。このたびは、こと僧をこそ呼ばめ。いづれか良かるべき」などのたまひけるを、この児(ちご)、臥しながら聞きて、民部卿に聞こえ給ふ。 「なほ、このたびは僧都を呼び給へがしと思ふなり。そのゆゑは、乳母(めのと)などの申すを聞けば、まだ腹の内なりける時より、この人を祈りの師と頼みて、生れて、今九つになるまで、ことゆゑなくて侍るは、ひとへにかの人の徳なり。それに、今日この病ひによりて、口惜しく思はんことのいと不便に侍るなり。もし、こと僧を呼び給ひたらば、たとひ落ちたりとも、なほ本意(ほい)にあらず。いはんや、必ず落ちんこともかたし。さりとも、これにて死ぬるほどのことは、よも侍らじ。我を思さば、幾たびもなほこの人を呼び給へ。つひには、さりともやみなん」と苦しげなるをためらひつつ、聞こえ給ふに、民部卿も母上も、涙を流しつつ、あはれに思ひよせたり。 「幼なき思ひばかりには劣りてげり」とて、またのあたり日、僧都を呼びて、ありのままにこの次第を語り給ふ。「隠し奉るべきことに侍らぬ御ことを、おろかに思ふにはあらねども、かれが悩み煩ひ侍る気色を見るに、心もほれて、思されむことも知らず、しかじかのことをうちうちに申すを知りて、この幼なき者のかく申し侍るなり」。涙を押しのごひつつ、語り給ふに、僧都、おろかに思されむや、その日、ことに信をいたしき。泣く泣く祈り給ひければ、きはやかに落ち給ひにけり。 この君は、幼なくより、かかる心を持ち給ひて、君につかうまつり、人にまじはるに付けても、ことにふれつつ、情深く、優なる名をとめ給へるなり。すべていみじき数寄人にて、世の濁りに心をそめず、いもせの間に愛執浅き人なりければ、後世も罪浅くこそ見えけれ。 ===== 翻刻 ===== 侍従大納言幼少時止験者改請事 侍従大納言成通卿ソノカミ九歳ニテ。ワラハヤミシ給 ケリ。年来イノリケルナニガシ僧都トカヤ云人ヲ呼テ 祈ラセケレドカヰナク発リケレバ。父ノ民部卿コトニ 歎キ給ヒテ傍ニソヒ居テ見アツカヒ給フ間ニ母君/n18r トイヒ合セツツサリトテイカガハセム此度ハコト僧 ヲコソ呼メ。イヅレカヨカルベキナドノ給ケルヲ此チゴ 臥ナカラ聞テ民部卿ニキコヘ給フ。猶コノ度ハ僧都ヲ ヨヒ給ヘガシト思フナリ。其故ハ。メノトナドノ申スヲ聞 バマタ腹ノ内ナリケル時ヨリ。此人ヲ祈ノ師トタノミ テ生テ今九ツニ成マデ事ユヘナクテ侍ルハ。ヒトヘニ 彼人ノ徳ナリ。ソレニ今日此病ニヨリテ口惜思ハン事 ノイト不便ニ侍ナリ。若コト僧ヲ喚給ヒタラバ。タトヒ 落タリトモ猶本意ニ非ズ。況ヤ必ズヲチン事モカタ シ。サリトモ是ニテ死ヌルホドノ事ハヨモ侍ラジ。我ヲ/n18l オホサバ幾度モ猶此人ヲヨビ給ヘ。終ニハサリトモヤミ ナント苦ケナルヲタメラヒツツ聞ヘ給フニ。民部卿モ 母ウヘモ涙ヲナガシツツ哀レニ思ヨセタリ。ヲサナキ 思バカリニハオトリテゲリトテ。又ノアタリ日僧都ヲ 喚テアリノママニ此次第ヲカタリ給フ。カクシ奉ル ベキ事ニ侍ラヌ御事ヲ。オロカニ思ニハアラネドモカ レガナヤミ煩ヒ侍ルケシキヲ見ニ心モホレテオボサ レム事モシラズ。シカシカノ事ヲウチウチニ申スヲ知テ 此オサナキ者ノカク申侍ルナリ。涙ヲ押ノゴヒツツ 語リ給フニ。僧都オロカニオホサレムヤ其日コトニ信/n19r ヲイタシキ。泣々祈リ給ヒケレバキハヤカニ落給ヒニ ケリ此君ハオサナクヨリカカル心ヲモチ給テ君ニ 仕マツリ人ニマジハルニ付テモ。事ニフレツツ情フカク優 ナル名ヲトメ給ヘルナリ。惣テイミジキスキ人ニテ 世ノ濁ニ心ヲソメズ。イモセノ間ニ愛執アサキ人ナリ ケレバ後世モ罪アサクコソ見ヘケレ/n19l