発心集 ====== 第五第13話(60) 貧男、差図を好む事 ====== ===== 校訂本文 ===== 近き世のことにや、年はたかくて、貧しくわりなき男ありけり。司(つかさ)などあるものなりけれど、出でつかふるたつきもなし。さすがに古めかしき心にて、あやしき振舞ひなどは思ひよらず、世執(せいしふ)なきにもあらねば、また、「頭(かしら)おろさん」と思ふ心もなかりけり。常には居所もなくて、古き堂の破れたるにぞやどりたりける。 つくづくと年月送る間に、朝夕するわざとては、人に紙反故(ほんぐ)など乞ひ集め、いくらも差図(さしづ)を描きて、家作るべきあらましをす。「寝殿はしかじか。門は何(なに)か」となど、これを思ひはからひつつ、尽きせぬあらましに心をなぐさめて過ぎければ、見聞く人は、いみじきことのためしになん言ひける。 まことにあるまじきことをたくみたるは、はかなけれど、よくよく思へば、この世の楽しみには、心をなぐさむるにしかず。一二町を作り満てたる家とても、これを「いし」と思ひならはせる人目こそあれ、まことには、わが身の起き臥す所は一二間に過ぎず。そのほかは、みな、親しき疎き人の居所のため、もしは、野山に住むべき牛馬の料をさへ作りおくにはあらずや。 かくよしなきことに身を煩はし、心を苦しめて、百千年あらんために、材木を選び、檜皮・瓦を玉・鏡と磨きたてて、何のせんかはある。主(ぬし)の命あだなれば、住むこと久しからず。あるいは他人の栖(すみか)となり、あるいは風に破れ、雨に朽ちぬ。いはんや、一度火事出で来ぬる時、年月の営み、片時の間に雲煙となりぬるをや。 しかあるを、かの男があらましの家は、走(わし)り求め、作り磨く煩ひもなし。雨風にも破れず、火災の恐れもなし。なす所はわづかに一紙なれど、心をやどすに不足なし。 龍樹菩薩、のたまひけることあり、「富めりといへども、願ふ心やまねば、貧しき人とす。貧しけれども、求むることなければ、富めりとす」と侍り。書写の聖((性空))、書きとめたる言葉に、「臂をかがめて枕とす。楽しみ、その中にあり、何によりて、さらに浮雲の栄耀を求めん」と侍り。また、あるものには、「唐に一人の琴の師あり。緒なき琴を間近かく置きて、しばしも傍(かたはら)を放たず。人、怪しみて、ゆゑを問ひければ、『われ、琴を見るに、その曲心に浮べり。そのゆゑに、同じけれども、心をなぐさむることは、弾(だん)ずるに異ならず」となん言ひける。 かかれば、なかなか目の前に作り営む人は、よそ目こそ、「あな、ゆゆし」と見ゆれど、心には、なほ足らぬこと多からん。かの面影栖(おもかげすみか)、ことにふれて徳多かるべし。 ただし、このこと、世間の営みに並ぶる時は、かしこげなれど、よく思ひとくには、天上の楽しみ、なほ終りあり。壺の内の栖、いと心ならず。いはんや、よしなくあらましに、むなしく一期を尽さんよりも、願はば必ず得つべき、安養世界((極楽浄土))の快楽、不退なる宮殿(くうでん)・楼閣(ろうかく)を望めかし。 はかなかりける希望(けまう)なるべし。 ===== 翻刻 ===== 貧男好差図事 近世ノ事ニヤ年ハタカクテ貧クワリナキ男有ケリ。 司ナトアルモノナリケレド出ツカフルタツキモナシ サスガニフルメカシキ心ニテ奇キフルマヒナドハ思ヨラ ズ。世執ナキニモアラネバ。又カシラヲロサント思フ心モナ カリケリ。常ニハ居所モ無テ古堂ノヤブレタルニゾ舎リ タリケル。ツクツクト年月ヲクル間ニ朝夕スルワザトテハ 人ニ紙ホンクナト乞アツメ。イクラモ差図ヲカキテ家 作ルベキアラマシヲス寝殿ハシカシカ。門ハナニカトナド 是ヲ思ハカラヒツツ尽セヌ荒増ニ心ヲナクサメテ過/n27r ケレハ見聞人ハイミジキ事ノタメシニナン云ケル。誠ニ 有マジキ事ヲタクミタルハ。ハカナケレド能々思ヘバ 此世ノ楽ミニハ心ヲナクサムルニシカズ。一二町ヲ作リ ミテタル家トテモ是ヲヰシト思ヒナラハセル。人メコ ソアレ誠ニハ我身ノヲキフス所ハ一二間ニ過ズソノ 外ハ皆シタシキウトキ人ノ居所ノ為。モシハ野山ニス ムベキ牛馬ノレウヲサヘ作リヲクニハアラズヤカクヨ シナキ事ニ身ヲワヅラハシ。心ヲクルシメテ百千年 アランタメニ。材木ヲヱラヒ檜皮カハラヲ玉鏡トミガ キ立テ何ノセンカハ有。ヌシノ命アタナレハ住事ヒ/n28r サシカラス或ハ他人ノ栖トナリ或ハ風ニヤブレ雨ニ朽ヌ 況ヤ一度火事出キヌル時年月ノイトナミ片時ノ 間ニ雲烟トナリヌルヲヤ。シカアルヲ彼男カ有増ノ 家ハ走リモトメ作リミガク煩モナシ。雨風ニモ不破 火災ノ恐モナシ。ナス所ハワツカニ一紙ナレド心ヲヤ ドスニ不足ナシ。龍樹菩薩ノ給ヒケル事アリ冨トイヘ ドモ願フ心ヤマネバ貧キ人トス。貧シケレドモ求ル事 ナケレバ冨リトスト侍リ。書写ノ聖カキトメタル辞ニ 臂ヲカカメテ枕トス楽ミ其中ニアリ何ニヨリテ更ニ 浮雲ノ栄耀ヲモトメント侍ベリ。又或物ニハ唐ニ一人ノ/n28l 琴ノ師有緒ナキ琴ヲマヂカク置テシバシモ傍ヲ不 放。人アヤシミテ故ヲ問ケレバワレ琴ヲミルニソノ曲心 ニウカヘリ。其ユヘニヲナジケレトモ心ヲナグサムル事ハ 弾スルニ異ナラズトナン云ヒケル。カカレハ中々目ノ前 ニツクリイトナム人ハ。ヨソ目コソアナユユシト見ユレド 心ニハ猶タラヌ事ヲホカラン。彼面影栖コトニフレテ徳 オホカルベシ。但シ此事世間ノイトナミニナラブル時ハ。カ シコゲナレド能思ヒトクニハ天上ノ楽ナヲ終アリツ ホノウチノスミカ。イト心ナラズ況ヤヨシナク有増ニ ムナシク一期ヲツクサンヨリモネガハハ必ス得ツベキ/n29r 安養世界ノ快楽不退ナル宮殿楼閣ヲ望メカシ。ハカ ナカリケル希望ナルベシ/n29l