発心集 ====== 第五第12話(59) 乞児、物語の事 ====== ===== 校訂本文 ===== ある上人の、ものへまかりける道に、乞児三人ばかり行きつれたりけるが、おのが友、物語するを聞けば、一人が言ふやう、「近江(あふみ)はゆゆしき運者(うんじゃ)かな。坂のまじらひして、いまだ三年にだに満たぬに、宝鐸(ほうちやく)許(ゆ)りたるは、ありがたきことぞかし」と言へば、今一人がいはく、「それは別の果報の人ぞ。口汚なくて言ふべからず」と言ふ。 「これを聞きてこそ、わがさまを、仏菩薩のことにふれてはかなく見給ふらんこと、思ひ知られて、あはれに恥しく思え侍りしか」と語りき。 また、ある人、片田舎に行きて、いやしき家に宿を借りて泊まりけるに、この家の主(あるじ)を見れば、年八十余りにやあらん、頭(かうべ)は雪のごとくして、膚(はだへ)黒く、皺(しは)たたみ、目ただれ、口すげうて、腰は二重にかがまりて、立ち居る度に大きに苦しう、「いかにも今日・明日のことにこそ」と、いとほしく思えて、これを勧めて言ふやう、「なんぢ、老いせまりて、残命(ざんめい)、今いくばくかはあらん。行歩(ぎやうぶ)もかなはざれば、人にまじるにつけても苦しからん。今は出家うちして、念仏申して、のどかにゐたれかし。さらば、後世の楽しみもしかるべきのみにあらず、身も安からん」と言ふ。 翁の言ふやう、「まことに、今はさやうにこそつかまつるべきを、なるべき司(つかさ)の一つ侍るによりて、たえぬ身に、老いの力をはげみて、かくまでつかへ侍るなり。われよりも、今三年がこのかみなる翁、上臈(じやうらふ)にて侍り。かれ、人まねつかまつりなむ後は、必ずその司にまかりなるべければ、それまで待ち侍るなり」と言ひける。 さやうの者のなる司思ふに、さばかりこそはあるらめ。そのことに執をとめて、「今や、今や」とまぼりをりけん。罪深く、あはれにこそ侍れ。 ただし、これらをうち聞けば、愚かなるやうなれど、よく思へば、この世の望み、高きも賤しきも、道同じ。われらがいみじく思ひならはせる司・位も、これを上づ方に並ぶれば、翁が望みにことならず。いはんや、天竺・震旦の国王・大臣のありさまなどは、喩(たと)へても言ふべからず。 また、ある人いはく、「治承のころ、世の中乱れて、人多く亡び失せ侍りし時、敵(かたき)の方の人を捕へて、頸を斬りに出でまかるとて、ののしりあへるを見れば、ことよろしき者にこそ、さすがに由ありて見ゆるを、情けなくゆゆしげにして、追ひ立ちて行く。地獄絵に描ける鬼人にことならず。『あな心憂(こころう)。よも、うつつ心あらじ』と、あはれにいとほしく見ゆるほどに、道に蕀(むばら)のあるを、『踏まじ』とて、よきて行かんとするを、見る人、涙落していはく、『かばかりの目を見て、今いく時あるべき身なれば、蕀を踏まじと思ふらん』と、はかなく悲しみあへり」。 これまた、人の上かは。われ世の末に及びて、命短かく果報つたなき時、わづかに人界に生まれたりといへども、二仏((釈迦如来と弥勒菩薩))の中間闇深く、闘諍堅固の恐れはなはだし。ひま行く駒、早く移り、羊の歩み、屠所に近付けば、終り今日とも知らず、明日とも知らず。何の他念かはあるべき。立ちても居ても、煩悩の敵(あた)のために繋縛(けばく)せられたることを悲しみ。寝ても覚めても、無常の剣(つるぎ)のたちまちに命を絶たむこと、恐るべきぞかし。 しかるを、むなしく塵灰(ちりはひ)となるべき限りの身を思ふとて、露の間の貴賤を憂へ、心を悩まし、名利をわしる。ただ、かの蕀をよきけむ人とこそ思え侍れ。 大方、ひを虫の朝(あした)に生まれて、夕べに死ぬる習ひも、必ず、みなこれわが身の上にあり。天の中に命短かき四天王天を聞けば、この世の五十年をもつて一日一夜とせり。わが国の、命長しといふ人、わづかに、この天の一日二日にこそは当るらめ。いはんや、上ざまの天に比ぶれば、ただ時の間といふべし。かかればとて、いづこかは、われらがひを虫を思へるに異なる。 もろもろのこと、かくのごとく言はば、とてもかくてもありぬべきこの世なり。ただ、かの、「夢の中の有無は、有無ともに無なり。まどひの前の是非は、是非ともに非なり」と言へるが、めでたきことはりにて侍るなり。 されば、禅仁といふ三井寺の名僧の法印になりたりける時、人喜び言ひたりける返りごとは、「かの六欲四禅の王位に見えたる所なり。この小国辺鄙の位、なんぞ愛するに足らん」とこそ言ひたりけれ。智恵はなほかしこきものなり。 大方、凡夫の習ひ、いやしくつたなきことも、身の上をば知らず。このゆゑに、乞食かたゐ、名聞を具せり。めでたく、やむごとなきこととても、また、わが分に過ぎぬれば、望む心なし。民の王宮を願はざるがごとし。 今、これを思ひとくには、濁れる末の世の人、極楽を願はぬは極めたることはりなり。かの国のありさま、衆生の楽しみ、ことにつけ、ものにふれて、何かはわれらが分になずらへたる。みな、心も言葉も及ばぬことどもぞかし。 しかあれば、もし、悲願を聞きて、信をもおこし、いささか望む心もあらむ人は、この世一つのことにあらず。生々世々に勤めたりける余波(なごり)として、いかにも近付けることと、頼もしく思ふべきなり。 ===== 翻刻 ===== 乞児物語事 或上人ノ物ヘマカリケル道ニ乞児三人計ユキツレタリ ケルガ。ヲノガ友物語スルヲキケハ。独ガ云フ様。アフミハ ユユシキ運者カナサカノマジラヒシテイマダ三年ニ ダニミタヌニ宝鐸ユリタルハ難有事ゾカシト云ヘバ。今 一人ガ云ク其ハ別ノ果報ノ人ゾ。口キタナクテ云ベカラス ト云。是ヲキキテコソ我ガサマヲ仏菩薩ノ事ニフレテ ハカナク見給フラン事。オモヒシラレテ哀ニハヅカシクオ ボヘ侍リシカト語リキ。又或人カタヰナカニ行テ。イヤシ キ家ニヤドヲカリテトマリケルニ。此家ノ主ヲ見レバ。年/n24r 八十余ニヤアラン。頭ハ雪ノ如クシテ膚クロク。シハタタミ目 タタレ口スケウテ腰ハ二重ニカガマリテ立居ル度ニ大キニ クルシウイカニモ今日明日ノ事ニコソト。イトヲシク覚ヘ テ是ヲススメテ云様。ナンヂ老セマリテ残命今イク バクカハアラン。行歩モカナハザレバ人ニマジルニツケテモ苦シ カラン。今ハ出家ウチシテ念仏申シテ。ノドカニイタレカ シ。サラバ後世ノタノシミモ可然ノミニアラズ身モヤスカ ラント云。翁ノイフ様。誠ニ今ハサヤウニコソ仕ルヘキヲ。 成ベキツカサノ一侍ニヨリテ。タエヌ身ニ老ノ力ヲハゲ ミテカクマデツカヘ侍ルナリ。我ヨリモ今三年カコノカミ/n24l ナル翁上臈ニテ侍リ。カレ人マネ仕リナム後ハ必ラス其 ツカサニ罷成ベケレバ。ソレマデマチ侍ルナリト云ケル。サ ヤウノ者ノ成ツカサ思ニサバカリコソハアルラメ。其事ニ 執ヲトメテ。今ヤ今ヤトマボリヲリケン罪フカク哀ニコ ソ侍レ。但シ是ラヲ打キケバ。愚ナルヤウナレド。能思ヘバ 此世ノ望ミ高モイヤシキモ道同シ。我ラガイミジク 思ヒナラハセル司位モ是ヲ上ヅカタニナラブレバ翁カ 望ニコトナラズ。況ヤ天竺震旦ノ国王大臣ノアリサマ ナドハ喩テモ云ベカラズ。又或人云治承ノ比世中ミダ レテ人ヲホク亡ウセ侍リシ時。カタキノ方ノ人ヲ捕テ/n25r 頸ヲキリニ出マカルトテ。ノノシリアヘルヲ見レバ。コトヨロ シキ者ニコソ。サスガニ由アリテ見ユルヲ情ナクユユシゲ ニシテ。ヲヰタチテ行。地獄絵ニカケル鬼人ニコトナ ラズ。アナ心憂ヨモ現心アラジト哀ニイトヲシク見 ユル程ニ。道ニ蕀ノアルヲフマジトテ。ヨキテ行ントスル ヲ見ル人ナミダ落テ云ク。カバカリノメヲミテ今イク 時アルベキ身ナレバ蕀ヲフマジト思フラント。ハカナク 悲ミアヘリ。是又人ノ上カハ我ラ世ノスヱニ及ヒテ命 ミジカク果報ツタナキ時ワヅカニ人界ニ生レタリ トイヘドモ二仏ノ中間ヤミフカク。闘諍堅固ノヲソレ/n25l ハナハダシ。ヒマ行駒ハヤクウツリ。羊ノ歩屠所ニチカヅケハ ヲハリ今日トモ不知明日トモシラズ。何ノ他念カハ有 ベキ。立テモ居テモ煩悩ノアタノ為ニ繋縛セラレタル 事ヲ悲ミ。寝テモ覚テモ無常ノツルギノ忽ニ命ヲ タタム事オソルベキゾカシ。然ルヲムナシク塵灰トナルベ キ限ノ身ヲ思フトテ露ノマノ貴賤ヲウレヘ心ヲナヤマ シ名利ヲワシル。只カノ蕀ヲヨギケム人トコソ覚ヘ侍レ。 大方ヒヲ虫ノ朝ニ生テ夕ニ死ヌル習モ必ス皆コレ我身 ノウヘニ有。天ノ中ニ命ミジカキ四天王天ヲキケバ。此 世ノ五十年ヲ以テ一日一夜トセリ。我国ノ命ナガシ/n26r ト云人ワツカニ此天ノ一日二日ニコソハアタルラメ況ヤ 上サマノ天ニクラブレバ只時ノマト云ベシ。カカレバトテ。 イヅコカハ我等ガヒヲ虫ヲ思ヘルニコトナル。諸ノ事 如此イハバ。トテモカクテモ有ヌベキ此世ナリ。只彼 夢ノ中ノ有無ハ有無トモニ無ナリ。マドヒノ前ノ是 非ハ是非トモニ非ナリトイヘルカ。目出度コトハリニテ 侍ルナリ。サレバ禅仁ト云フ三井寺ノ名僧ノ法印ニナ リタリケル時人ヨロコビイヒタリケルカヘリ事ハ彼六欲 四禅ノ王位ニ見ヘタル所ナリ。此小国辺鄙ノ位ナンゾ 愛スルニタラントコソイヒタリケレ。智恵ハ猶カシコキ/n26l モノ也大方凡夫ノ習イヤシクツタナキ事モ身ノウヘ ヲハ不知此故ニ乞食カタヒ名聞ヲクセリ。目出度止 事無コトトテモ又我分ニ過ヌレバ望ム心ナシ。民ノ王宮 ヲネガハザルカ如シ。今コレヲ思トクニハ。濁レル末ノ世ノ 人極楽ヲネガハヌハキハメタルコトハリ也。彼国ノアリサマ 衆生ノ楽ミ事ニツケ物ニフレテ。ナニカハ我等ガ分ニナ ズラヘタル。ミナ心モコトバモ及バヌ事ドモゾカシ。然アレバ 若悲願ヲキキテ信ヲモヲコシ。聊ノソム心モアラム人ハ。 此世一ノ事ニアラズ。生々世々ニツトメタリケル余波 トシテ。イカニモ近ケル事ト。タノモシク思フベキナリ/n27r