発心集 ====== 第五第10話(57) 花園の左府、八幡に詣で往生を祈る事 ====== ===== 校訂本文 ===== 花園左大臣((源有仁))は、御形・心用ひ・身の才、すべて欠けたることなく、ととのほり給へる人なり。近き王孫にいます。かかりければ、かくただ人になり給へることを、人も惜しみ奉る。わが御心にも思し知りて、御喜びなるべきことをも、その気色、人に見せ給ふことなかりけり。 もし、つかうまつり人の中に、男も女も、おのづから心よげにうち笑ひなどするをも、「かかる宿世つたなきあたりにありながら、何ごとの嬉しき」など、聞き過ぐさず、はしため給ひければ、初春(はつはる)の祝ひごとなどをだに、思ふばかりえ言はぬ習ひにてなむありける。 春は内わたりも、なかなかうるはしければ、身に才(さえ)あるほどの若き人は、ただこの殿にのみ詣で集まりて、詩歌管絃につけつつ、心をなぐさむることひまなし。上の御兄達(せうとたち)、はたいます。朝夕といふばかりさぶらひ給ひければ、をほいどのなど申すばかりこそあれ、さるべき色々の御もてなしに変らず、あかぬことなく見えけれど、すべて身を憂きものに深く思し取りて、常には、「物思へる人ぞ」とぞ見え給ひける。 いづれの時にかありけん。京より八幡((石清水八幡宮))へ、徒歩(かち)より((「徒歩より」は、底本「カケヨリ」。文意により訂正))、御束帯にて、七夜参り給ふことありけり。別当光清、このことを聞きて、大きに御まうけ用意して、御気色し給ひけれど、「このたびは、『ことさらに立ち宿るかたなくて詣でなん』と思ふ心ざしあれば、えなん立ち入るまじき」とて、寄り給はざりけり。 七夜に満(まん)じて、帰り給ひけるに、算豆((『今鏡』は「美豆(みつ)」。))といふ所において、御望みかなふべきよしの歌奉りたれば、返しはし給はず、「これ、御神の仰せなり」とて、御袋に納めて、帰(かへ)さに、乗り給ふ御馬をぞ、鞍置きながら賜はせける。 御供につかうまつる人、「いかばかりなる御望みなれば、かく徒歩(かち)にて夜を重ねつつ詣で給ふらん」と、ありがたく思えて、「いかにもただごとにはあらじ。大菩薩は現人神(あらひとがみ)と申す中にも、昔の御門((応神天皇))におはします。限りある御氏の、絶え給ひぬること、仰せらるるにや」とまで、おぼつかなく思ひけるに、御幣(みてぐら)の役すとて、近く候ひけるに聞きければ、忍びつつ、「臨終正念。、往生極楽」と申させ給ひけるにぞ、かなしくも、また、めでたくも思えける。 まことに、御門の御位をやむごとなけれど、つひには、刹利(せつり)も須陀(しゆだ)も変らぬ習ひなれば、往生極楽の常のことにはしかずとなん。 ===== 翻刻 ===== 花園左府詣八幡祈往生事 花園左大臣ハ御形チ。心モチヰ。身ノ才スベテカケタル 事ナク調リ給ヘル人ナリ。近キ王孫ニイマスカカリケレ バカクタダ人ニナリ給ヘル事ヲ人モヲシミ奉ル。我御心ニ モオボシシリテ。御ヨロコビナルベキ事ヲモ其気色人 ニ見セ給フ事ナカリケリ。若ツカフマツリ人ノ中ニ男モ 女モヲノヅカラ心ヨケニ打咲ヒナドスルヲモ。カカル宿 世ツタナキアタリニ有ナガラ。何事ノウレシキナド 聞スクサズハシタメ給ヒケレバ。初春ノ祝事ナドヲタニ/n21l 思フバカリヱイハヌ習ニテナムアリケル。春ハ打ワタリ モ中々ウルハシケレバ身ニ才アル程ノ若人ハタダ 此殿ニノミ詣アツマリテ詩歌管絃ニツケツツ心ヲナ グサムル事隙ナシ。上ノ御兄達。ハタヰマス。朝夕トイフ ハカリサフラヒ給ケレバ。ヲホヰトノナド申バカリコソア レ。サルベキ色々ノ御モテナシニカハラズ。アカヌ事ナク 見ヘケレド。スベテ身ヲウキ物ニ深クオボシトリテ。 常ニハ物オモヘル人ゾトゾ見ヘ給ヒケル。何レノ時ニカ アリケン。京ヨリ八幡ヘカケヨリ御束帯ニテ七夜マ イリ給フ事アリケリ。別当光清此事ヲキキテ大キニ/n22r 御マウケ用意シテ御気色シ給ヒケレド此度ハ殊更 ニタチヤドルカタナクテ。詣ナント思フココロザシアレバ。 ヱナン立入マジキトテ寄給ハザリケリ。七夜ニ満テ 帰リ給ヒケルニ算豆ト云所ニオヰテ御望カナフベ キヨシノ歌タテマツリタレバ返シハシ給ハズ。是御神 ノ仰ナリトテ御フクロニオサメテカヘサニ乗給御 馬ヲゾ鞍置ナガラ給ハセケル。御供ニツカフマツル人 イカバカリナル御望ナレバ。カクカチニテ夜ヲ重ツツ 詣給フラント。アリガタク覚テイカニモ只事ニハア ラジ。大菩薩ハアラ人神ト申中ニモ昔ノミカドニオ/n22l ハシマス。限アル御氏ノタエ給ヌル事仰ラルルニヤトマデ。オ ボツカナク思ヒケルニ御幣ノ役ストテ近ク候ヒケルニ 聞ケレバ。忍ツツ臨終正念往生極楽ト申サセ給ケル ニゾ。カナシクモ又メデタクモ覚ヘケル。誠ニ御門ノ御位 ヲヤム事ナケレド。終ニハ刹利モ須陀モカハラヌ習ナレハ 往生極楽ノツネノ事ニハシカズトナン/n23r