発心集 ====== 第五第2話(49) 伊家并びに妾、頓死往生の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、朝夕御門につかうまつる男ありけり。優なる女を語らひて、年ごろ住み渡りけるほどに、心移る方やありけん、宮仕へにことよせて、やうやうかれがれになり行くを、「心の外の絶え間か」と思ふほどに、つひに通はずなりにければ、女、ことに触れつつ、心細く思ひ歎きつつ、年月を送る間に、男、ことのたよりありて、女の門の前を過ぎけり。 そこなる人、見あひて、「ただ今、殿の、御前をこそこれより過ぎ給ひつれ。さすがに、『さる所あり』とは思し出づるめり。物見よりなん、見入れ給ひつる」と語る。これを聞きて、「『聞こゆべきこと侍り。入り給ひなむや』と申せ」と言ふ。「過ぎ給ひぬるものを、やは帰り給はんずる」と言ひながら、走りつきて、この由(よし)を聞こゆ。「あやしく、何事にか」と思えながら、これをさへ聞き過ぐべきならねば、止まりぬ。 門よりさし入りて、見れば、草深く茂りて、ありしにもあらず、荒れたる庭の気色を見るより、何となくあはれ深くなむまさりける。わが身のとが思ひ知られて、いかにぞや、すずろはしき様に思ゆるを、女は今さら心浮きたる気色なし。もとよりかくて居たりける様にて、脇息におしかかりて、法華経を読み給ひつる。 物思ひけるさまながら、少しおもやせたるものから、いと清げに、らうたげなる形(かたち)・姿(すがた)、髪のこぼれかかる様など、もと見し人とも思えず、たぐひなく見ゆるに、「何のものの狂はしにて、この人にものを思はせけん」と、日ごろの心苦しさを思ふにも、いとどあはれ浅からず。心ならぬことのありさまなど、ねんごろに語りける。 女、「もの言はん」と思へる気色ながら、いらへもせねば、経読み果ててと思ふなるべし。いぶせく心得なく待つほどに、「於此命終即往安楽世界阿弥陀仏」といふ所を、繰り返し二度三度読みて、やがて寝入るがごとくにて、居ながら息絶えにけり。 この男の心、いかばかりなりけむ。男とは、なにがしの弁とかや聞きしかど、名は忘れにけ り((標題では伊家(藤原伊家)。なお、[[:text:k_konjaku:k_konjaku31-7|『今昔物語集』31-7]]では、藤原師家となっている。))。 人を恋ひては、あるいは望夫石と名をとどめ(([[:text:kara:m_kara012|『唐物語』第12話]]参照))、もしはつらさの余りに、悪霊なんどになれるためしも聞こゆ。いかにも罪深き習ひのみこそ侍るに、それを往生の縁(えん)として、思ふやうに終りにけん、いとめでたかりける心なるべし。 あはれ、これをためしにて、この世にも物思ふ人の往生を願ふことにて侍らば、いかに心かしこからん。たとひ、同じ心なる中とても、幾世かはある。楊貴妃はむなしく比翼の契りを残し(([[:text:kara:m_kara018|『唐物語』第18話]]参照))、李夫人はわづかに反魂の煙(けぶり)にのみあらはれたり(([[:text:kara:m_kara015|『唐物語』第15話]]参照))。いはんや、思はぬ人のためには、ことにふれつつ、あはれも知らんことわりもなし。思ひあまりぬる時。富士の嶺(ね)を引きかけ、海士の袖とかこちて、ねんごろに心の底をあらはせど、何のかひかはある。一人胸をこがし、袖をしぼるほどは、いみじくあぢきなくなむ侍り。いかにいはんや、この世一つにてやむべきことにてもあらず。その報ひむなしからねば、来世にはまた、人の心をつ尽さすべし。 かくのごとく、世々生々、互ひにきはまりなくして、生死のきづなとならんことの、いと罪深く侍るなり。このたび、思ひ切りて、極楽に生れなば、憂きもつらきも寝ぬる夜の夢に異らじ。立ち帰り、善知識と悟りて、かれを導かんことこそ、あらまほしく侍れ。もし、浄土にて、なほ尽きがたきほどの恨みならば、その時言ひ向へをもせよかし。 ===== 翻刻 ===== 伊家并妾頓死往生事 中来朝夕御門ニツカフマツル男アリケリ優ナル女ヲ/n6l カタラヒテ年来スミワタリケル程ニ。心ウツル方ヤ有ケン。 ミヤヅカヘニ事ヨセテ。ヤウヤウカレガレニ成ユクヲ。心ノ外ノ タヘ間カト思フホドニ終ニカヨハス成ニケレバ女コトニフ レツツ心ボソク思ヒ歎キツツ年月ヲ送ル間ニヲトコ事ノ タヨリ有テ女ノ門ノ前ヲスギケリ。ソコナル人見アヒテ 只今殿ノ御前ヲコソ自是スキ給ツレ。サスガニサル所ア リトハオボシ出ツルメリ。物見ヨリナン見イレ給ヒツルトカ タル。是ヲキキテ。キコユベキ事侍リ入タマヒナムヤト申セ ドイフ。過タマヒヌル物ヲヤハ帰リ給ハンズルト云ナガラ 走ツキテ此由ヲキコユアヤシク何事ニカト覚ヘナカラ/n7r 是ヲサヘキキ過ベキナラネハトマリヌ。門ヨリサシ入テ 見レバ草フカクシゲリテ。有シニモ非スアレタル庭ノケ シキヲ見ヨリ。何ト無ク哀レ深クナムマサリケル。我 身ノトガ思ヒシラレテイカニゾヤ。ススロハシキ様ニオ ボユルヲ女ハ今更心ウキタルケシキナシ。モトヨリカ クテヰタリケル様ニテ脇足ニヲシカカリテ法華経 ヲヨミ給ヒツル。物思ヒケル様ナガラ少シオモヤセタル モノカラ。イト清ゲニラウタゲナル形スガタ髪ノコボレ カカル様ナド。モト見シ人トモ不覚無類ミユルニナニノ モノノクルハシニテ。此人ニ物ヲ思ハセケント日来ノ心グ/n7l ルシサヲ思ニモ。イトト哀レ不浅。心ナラヌ事ノアリサマ ナド懇ニカタリケル。女モノイハント思ヘルケシキナガ ラ。イラヘモセネバ経ヨミハテテト思ナルヘシ。イフセク心 エ無マツホトニ。於此命終即往安楽世界阿弥陀仏 ト云所ヲクリカヘシ二度三度ヨミテ。ヤガテネイルカ如 クニテ居ナガライキ絶ニケリ。此男ノ心イカバカリナリ ケム男トハナニガシノ辧トカヤ聞シカド名ハワスレニケ リ。人ヲ恋テハ或ハ望夫石ト名ヲトドメ。モシハツラサノ余 リニ悪霊ナンドニナレルタメシモ聞ユ。イカニモ罪深キ 習ノミコソ侍ニ。ソレヲ往生ノ縁トシテ思フ様ニヲハリ/n8r ニケン。イトメデタカリケル心ナルベシ。哀レ是ヲタメシニ テ此世ニモ物思フ人ノ往生ヲ願事ニテ侍ラバ。イカニ 心カシコカラン。タトヒ同シ心ナル中トテモ幾世カハアル 楊貴妃ハムナシク比翼ノ契ヲノコシ。李夫人ハワヅカニ反 魂ノケフリニノミアラハレタリ。況ヤ思ハヌ人ノ為ニハ。コトニ フレツツ哀モシランコトハリモナシ。思ヒアマリヌル時。富士 ノネヲヒキカケ。海士ノ袖トカコチテ念比ニ心ノ底ヲア ラハセド何ノカヒカハアル。独ムネヲコガシ袖ヲシボル程ハ イミジクアチキナクナム侍リ。何況ヤ此世ヒトツニテヤ ムベキ事ニテモ非ス。其ムクヒ空シカラネバ来世ニハ又/n8l 人ノ心ヲツクサスベシ。如此世々生々タガヒニキハマリ無シテ 生死ノキヅナトナラン事ノイト罪深ク侍ルナリ。此度 思キリテ極楽ニ生レナバ。ウキモツラキモネヌル夜ノ夢 ニコトナラジ。立帰リ善知識トサトリテカレヲ道引ン 事コソアラマホシク侍レ若浄土ニテ猶ツキガタキ程ノウ ラミナラバ。其時イヒムカヘヲモセヨカシ/n9r