発心集 ====== 第四第6話(43) 玄賓、念を亜相の室に係くる事 不浄観の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、玄賓僧都(([[h_hosshinju1-01]]の玄敏に同じ。))、いみじう貴き人なれば、高きも賤しきも、仏のごとく思へりける中に、大納言なる人なん、年ごろことにあひ頼み給ひたりける。 かかる間に、僧都、そこはかとなく悩みて、日ごろになりぬ。大納言、おぼつかなさのあまりに、みづから渡り給ひて、「さても、いかなる御心地にか」なんど、細やかにとぶらひ給ふを、「近く寄り給へ。申し侍らん」とあれば、あやしくて、さし寄り給へるに、忍びて聞こゆ。「まことには、ことなる病にも侍らず。一日、殿の御もとへ詣でたりしに、北の方の形、いとめでたくて見え給へりしを、ほのかに見奉りて後、もの思えず心まどひ胸ふたがりて、いかにもものの言はれ侍らぬなり。このこと、申すにつけてはばかりあれど、深く頼み奉りて久しくなりぬ。いかでかは隔て奉らんと思てなん」と聞こゆ。 大納言、驚きて、「さらば、などかはとくはのたまはざりし。いと安きことなり。すみやかに御悩みをやめてん。渡り給へ。いかにも、のたまはんままに、便りよくはからひ侍らん」とて、帰り給ぬ。 うへに、「かく」と聞こえ給ふに、「さらなり。なのめに仰せられんやは。いとあさましく心憂けれど、かくねんごろに思しはからふことなれば、いなび給はじ」((「いなび給はじ」は底本「イナヒ給ン」。諸本により訂正。))。その用意して、僧都のかなひせさせ給へるに、いとことうるはしく、法服正しくして来たり給へり。あやしく、げにげにしからずは思ゆれど、間なんど立てて、さるやうなる方に入れ奉らせ給ふ。 上(うへ)のうつくしう、とりつくろひて居給へるを、一時ばかり、つくつくとまぼりて、弾指をぞたびたびしける。かくて、近く寄ることなくて、中門の廊に出でて、物をなんかづきて帰りにければ、主、いよいよ貴み給ふことかぎりなかりけり。不浄を観じて、その執をひるがへすなるべし。 かくいふは、人の身の穢らはしきことを思ひとくなり。もろもろの法、みな、仏の御教へなれど、聞き遠きことは、愚かなる心にはおこらず。この観に至りては、目に見え、心に知れり。悟りやすく、思ひやすし。「もし、人のためにも愛着し、みづからも心あらん時は、必ずこの相を思ふべし」と言へり。 おほかた、人の身は、骨・肉(しし)のあやつり、朽ちたる家のごとし。六腑五臓のありさま、毒蛇のわだかまるにことならず。血は体をうるほし、筋、継ぎ目をひかへたり。わづかに薄き皮一重、覆へるゆゑに、このもろもろの不浄を隠せり。粉(おしろい)を施し、たき物を移せど、誰かは偽はれる飾りと知らざる。 海に求め、山に得たる味(あじは)ひも、一夜経(へ)ぬれば、ことごとく不浄となりぬ。いはば、描ける瓶(かめ)に糞穢を入れ、腐りたる屍(かばね)に錦をまとへるがごとし。もし、たとひ大海を傾けて洗ふとも、浄まるべからず。もし、栴檀を焚きて匂はすとも、久しく香ばしからじ。 いはんや、魂去り、寿(いのち)尽きぬる後は、むなしく塚のほとりに捨つべし。身膨れ、腐り、乱れて、つひに白き屍(かばね)となり、真(まこと)の相を知るゆゑに、念々に是を厭ひ、「愚かなる者は、仮の色にふけりて、心をまどはすこと、たとへば、厠(かうや)の中の虫の、糞穢を愛するがごとし」と言へり。 ===== 翻刻 ===== 玄賓係念亜相室事 不浄観事 昔玄賓僧都イミジウタウトキ人ナレバ高キモ賤モ 仏ノ如ク思ヘリケル中ニ。大納言ナル人ナン。年比コトニ 相憑ミ給タリケル。カカル間ニ僧都ソコハカトナクナヤ ミテ。日比ニナリヌ。大納言覚束ナサノアマリニ。自ラ渡 給テ。サテモイカナル御心地ニカナント。コマヤカニトフラ/n12r ヒ給ヲ。近クヨリ給ヘ申侍ラントアレバ。アヤシクテサシヨリ 給ヘルニ。忍テキコユ誠ニハコトナル病ニモ侍ラズ。一日殿ノ 御モトヘマウデタリシニ。北方ノ形イト目出テ見ヘ給ヘリ シヲ。ホノカニ見タテマツリテ後物覚ヘズ心マトヒムネフ タカリテイカニモ物ノ云レ侍ラヌ也。此事申ニツケテ憚 アレド深ク憑奉リテ久ナリヌ。イカデカハ隔奉ラン ト思テナントキコユ。大納言ヲドロキテ。サラバナドカ ハ。トクハノ給ハザリシ。イト安キ事也速ニ御ナヤミヲ ヤメテン。ワタリ給ヘイカニモノ給ハンママニ便ヨクハカラ ヒ侍ラントテ帰リ給ヌ。ウヘニ。カクトキコヘ給フニ。サラナ/n13l リ。ナノメニ仰ラレンヤハ。イトアサマシク心ウケレト。カク 懇ニ覚シハカラフ事ナレバ。イナヒ給ンソノ用意シテ 僧都ノカナヒセサセ給ヘルニ。イト事ウルハシク法服タ タシクシテ来リ給ヘリ。アヤシクゲニゲニシカラズハ覚 ユレド間ナンド立テテサルヤウナル方ニ入レ奉セ給 フ。ウヘノウツクシフトリツクロヰテ居給ヘルヲ一時バ カリツクツクトマボリテ弾指ヲゾ度々シケル。カクテ 近クヨル事ナクテ。中門ノ廊ニ出テ物ヲナンカヅキテ 帰リニケレバ。主弥タウトミ給事限リナカリケリ。不 浄ヲ観ジテ其執ヲヒルガヘスナルベシ。カク云ハ人ノ身/n14r ノケカラハシキ事ヲ思トクナリ。諸ノ法ミナ仏ノ御 ヲシヘナレド。キキドヲキ事ハヲロカナル心ニハヲコラス。此 観ニ至リテハ。目ニ見ヘ心ニシレリサトリヤスク思ヤスシ 若人ノ為ニモ愛着シ自ラモ心アラン時ハ必ス此相ヲ 思ベシト云リ。大方人ノ身ハホネシシノアヤツリ朽タル家 ノ如シ。六府五蔵ノアリサマ毒蛇ノワダカマルニコトナ ラズ血ハ体ヲウルホシ。筋次目ヲヒカヘタリ。ワヅカニウス キ皮ヒトヘヲホヘル故ニ。此諸ノ不浄ヲカクセリ。粉ヲ 施シ。タキ物ヲウツセド誰カハ偽ルカザリトシラザル。 海ニ求メ山ニヱタル味モ一夜ヘヌレハ悉ク不浄トナリ/n14l ヌ。イハバヱカケルカメニ糞穢ヲ入。クサリタルカバネニ錦 ヲマトヘルカ如シ。若タトヒ大海ヲ傾テアラフ共キヨマ ルベカラズ。若栴檀ヲタキテニホハストモ。久クカウバシ カラジ。況ヤタマシヒ去寿尽ヌル後ハ空クツカノホトリニ 捨ツベシ。身フクレクサリ乱レテ終ニ白キカバネトナリ 真ノ相ヲ知故ニ念々ニ是ヲ厭ヒ愚ナル者ハ。カリノ 色ニフケリテ心ヲマドハス事タトヘバ。カウヤノ中ノ虫ノ 糞穢ヲ愛スルガ如シト云ヘリ/n15r