発心集 ====== 第三第10話(35) 証空律師、希望深き事 ====== ===== 校訂本文 ===== 薬師寺に証空律師といふ僧ありけり。 よはひたけて後、辞して久しくなりにけるを、「かの寺の別当の欠に望み申さんと思ふは、いかかあるべき」と言ふ。弟子たるに、同じさまに、「あるまじきことなり。御年たけ給ひたり。つかさを辞し給へるに付けても、『必ず思すところあらんかし』と、人も心にくく思ひ申したるを、今さら、さやうに望み申し給はば、思はぬなることにて、人も心劣りつかまつるべし」と、ことはりを尽して、いみじういさめけれど、さらに、「げに」と思へる気色なし。いかにも、その心ざし深きことと見えければ、すべて力及ばず。 弟子、寄り合ひて、このことを歎きつつ言ふやう、「この上には、いかに聞こゆとも、聞き入らるまじ。いざ、そら夢を見て、身もだえ給ふばかり、語り申さん」とぞ定めける。 日ごろ経て後、静かなる時、一人の弟子、言ふやう、「過ぎぬる夜、いと心得ぬ夢なん見え侍りつる。この庭に、色々なる鬼の恐しげなる、あまた出で来て、大なる釜を塗り侍りつるを、あやしく思えて問ひつれば、鬼のいはく、『この坊主の律師の料なり』と答ふるとなん見えつる。何ごとにかは、深き罪おはしまさん。この事、心得ず侍るなり」と語る。 すなはち、「驚き恐れん」と思ふほどに、耳もとまて笑(ゑ)み曲げて、「この所望のかなふべきにこそ。披露なせられそ」とて、拝みければ、すべていふはかりなくて、やみにけり。 智者なれば、この律師まても昇りけめ。年七十にて、この夢を悦びけん、いと心憂き貪欲の深さなりかし。 かの、無智の翁が独覚の悟りを得たりけん(([[h_hosshinju3-09|前話]]参照。))には、たとへもなくこそ。 ===== 翻刻 ===== 証空律師希望深事 薬師寺ニ証空律師ト云僧アリケリ。ヨハヰタケテ後 辞シテ久ク成ニケルヲ。彼寺ノ別当ノ闕ニ望申サント 思ハイカカアルベキト云弟子タルニ同シサマニアルマシキ 事也御年タケ給ヒタリ。ツカサヲ辞シ給ヘルニ付テモ必 覚ス所アランカシト人モ心ニクク思申タルヲ今更サヤ/n21l ウニ望申給ハハ思ハヌナル事ニテ人モ心オトリツカマツルベ シト理リヲ尽シテイミジウイサメケレド更ニケニト思ヘル 気色ナシ。イカニモソノ心ザシ深キ事ト見ヘケレバ。スベテ 不及力弟子寄合テ此事ヲ歎ツツ云様。此上ニハイカニ キコユトモ聞入ラルマジ。イサ空夢ヲ見テ身モダエ給フバ カリ語申サントゾ定ケル。日比ヘテ後静ナル時ヒトリノ 弟子云ヤウ過ヌル夜イト心得ヌ夢ナン見ヘ侍ツル。此 庭ニ色々ナル鬼ノヲソロシゲナルアマタ出来テ大ナルカマ ヲヌリ侍ツルヲ。アヤシク覚テ問ツレハ鬼ノ云此坊主ノ 律師ノ料也ト答フルトナン見ヘツル。何事ニカハ深キ罪/n22r ヲハシマサン此事心得ズ侍ル也ト語ル即驚キ恐レント思 ホドニ耳本マテヱミ。マゲテ此所望ノ叶ベキニコソ披露ナ セラレソトテ。ヲカミケレバ。スベテ云ハカリナクテヤミニ ケリ智者ナレバ此律師マテモノボリケメ年七十ニ テ此夢ヲ悦ケンイト心ウキ貪欲ノフカサナリカシ。 カノ無智ノ翁カ独覚ノサトリヲ得タリケンニハ。タトヘ モナクコソ/n22l