発心集 ====== 第二第5話(17) 仙命上人の事 并びに覚尊上人の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 近ごろ、山((比叡山延暦寺))に、仙命聖人とて、貴き人ありけり。その勤め、理観を旨(むね)として、常に念仏をぞ申しける。 ある時、持仏堂にて、観念する間に、空に声ありて、「あはれ。貴きことをのみ観じ給ふものかな」と言ふ。怪しみて、「誰(た)そ、かくはのたまふぞ」と問ひければ、「われは、当所の三聖((釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来))なり。発心し給ひし時より、日に三度、あまがけりて、守り奉るなり」とぞ答へ給ひける。 この聖、さらに自ら朝夕(てうせき)のことを知らず。一人使ひける小法師、山の坊ごとに、一度廻りて、一日の餉(かれひ)を乞うて養ひけるほかには、何も人の施(せ)を受けざりけり。時の后の宮、願をおこして、「世に勝れて、貴からん僧を供養せん」と心ざして、あまねく尋ね給ひけるに、この聖のやむごとなき由(よし)を聞き給ひて、すなはち、御みづから布袈裟を縫ひ給ひて、「ありのままに言はば、よも受けじ」と思して、とかくかまへて、この小法師に心を合はせてなむ、「思ひがけぬ人の、賜はせたりつる」とて、奉りければ、聖、これを取りて、よくよく見て「三世の仏、得給へ」とて、谷へ投げ捨ててげれば、いふかひなくてやみにけり。 おほかた、人の乞ふもの、さらに一つ惜しむことなかりけり。板敷(いたじき)の板をほしがる人のありければ、わが房の板を二三枚はなして、取らせたりける間に、東塔の鎌倉に住む覚尊聖人、得意にて、夜暗き時来たりけるが、板敷の板の無きことを知らずして、落ち入る間に、「あな、かなし」と言ひけるを聞きて、「御房は不覚の人かな。もし、さてやがて死なむこともかたかるべき身かは。『あな、かなし』と言ふ終りの言やはあるべき。『南無阿弥陀仏』とこそ申さめ」なんど言ひける。 この仙命上人、かの覚尊が住む鎌倉へ行きたりけるに、とみのことありて、客人を置きながら、「きと外(ほか)へ行く」とて、急ぎ出づる人の、さらに内へ返り入つて、やや久しくものをしたためければ、あやしうて、出でてのち、跡を見給ふに、万(よろづ)の物に、ことごとく封を付けたり。この聖、思ふやう、「いと心悪きしわざかな。よも歩(あり)きのたびに、かくしもしたためじ。われを疑ふ心にこそ。はや返れがし。このことを恥ぢしめむ」と言ふ。 かく思ひたるほどに、返り来たれり。思ひまうけたることなれば、見付くるや遅しと、このことを言ふ。覚尊のいはく、「つねに、かくしたたむるにあらず。また、人の物を取るを惜しむにもあらず。されども、御房のおはすれば、かく取りおさめ侍るなり。その故(ゆゑ)は、もし、これらいささかも失せたることあらば、凡夫なれば、みづから御房を疑ひ奉る心のあらんことの、いみじう罪障ありぬべく思えて、わが心の疑はしさになむ。何(なに)ばかりのものをかは、惜しみ侍らん」とぞ言ひける。 かくて、「鎌倉の聖、先に隠れぬ」と聞きて、「必ず往生しぬらむ。物に封付けしほどの、心のたくみなれば」とぞ、仙命聖人は言ひけれ。 そののち、夢に覚尊に会へり。まづ初めの言葉には、「いづれの品(ほん)ぞ」と問ひければ、「下品下生(げぼんげしやう)なり。それだにも、ほとほとしかりつるを、御房の御徳に、往生とげたるなり。日ごろ、橋を渡し、道を作りし行ばかりにては、かなはざらまし。御勧めによりて、時々念仏をせしかば」とぞ言ひける。 またいはく、「仙命、往生はかなひなむや」と問ふ。「そのこと疑ひなし。はやく、上品上生(じやうぼんじやうしやう)に定まり給へり」と言ふとぞ、見えたりける。 ===== 翻刻 ===== 仙命上人事(并覚尊上人事) 近来山ニ仙命聖人トテ貴キ人アリケリ。其勤メ理 観ヲ旨トシテ常ニ念仏ヲソ申ケル。有時持仏 堂ニテ観念スル間ニ空ニ音アリテ。アハレ貴キ事ヲ ノミ観シ給フ物哉ト云。アヤシミテ誰カクハノ給ゾト 問ケレバ。我ハ当所三聖也。発心シ給シ時ヨリ日ニ 三度アマカケリテ守リ奉ル也トゾ答給ケル。此聖 更ニ自ラ朝夕ノ事ヲ不知。一人ツカヒケル小法師 山ノ坊ゴトニ一度廻テ一日ノカレイヲ乞テ養ケ ル外ニハ何モ人ノ施ヲ受サリケリ。時ノ后ノ宮願/n10l ヲ発テ。世ニ勝テ貴カラン僧ヲ供養セント心サシテ。 アマネク尋ネ給ヒケルニ。此聖ノヤム事ナキ由ヲ聞 給ヒテ。即御自ラ布袈裟ヲヌイ給テ。有ノママニ云ハハ ヨモ受シト覚シテ。トカクカマヘテ此小法師ニ心ヲ 合セテナム思カケヌ人ノ給ハセタリツルトテ奉リケレバ。 聖是ヲ取テ能々ミテ三世ノ仏得給ヘトテ谷ヘナケ ステテゲレバ。云カヒナクテヤミニケリ。大方人ノ乞物更 ニ一ヲシム事ナカリケリ。板シキノイタヲホシカル人ノ有ケ レバ。我房ノ板ヲ二三枚ハナシテ取セタリケル間ニ。東 塔ノ鎌倉ニスム覚尊聖人トクヰニテ。夜クラキ時来/n11r ケルガ板シキノ板ノナキ事ヲ知ラズシテ落入間ニアナカ ナシト云ケルヲ聞テ御房ハ不覚ノ人哉。若サテヤカ テ死ナム事モカタカルベキ身カハ。アナカナシト云ヲハリノ言 ヤハ有ヘキ。南無阿弥陀仏トコソ申サメナムド云ケル。此 仙命上人彼覚尊カ住鎌倉ヘ行タリケルニトミノ事 アリテ客人ヲオキナガラキト外ヘ行トテ急出ル人ノ サラニ内ヘ返入テヤヤヒサシク物ヲシタタメケレバアヤシフ テ出テ後跡ヲ見給フニ。万ノ物ニ悉ク封ヲ付タリ。 此聖思様イト心ワルキシワザ哉ヨモアリキノ度ニカク シモシタタメシ我ヲ疑心ニコソ。ハヤカヘレガシ此事ヲ/n11l ハチシメムト云。カク思タル程ニ返キタレリ。思マウケタル 事ナレバ。見ツクルヤヲソシト此事ヲイフ。覚 尊ノ云ク常ニカクシタタムルニ非ス。又人ノ物ヲトルヲ惜 ニモ非ズ。サレトモ御房ノヲハスレバ。カクトリヲサメ侍ヘル 也。其故ハ若此等イササカモウセタル事アラハ凡夫ナレバ 自ラ御房ヲ疑ヒ奉ル心ノ有ラン事ノイミジフ罪 障アリヌベク覚ヘテ。我心ノ疑ハシサニナム何ハカリノ物 ヲカハ惜ミ侍ラントソ云ケル。カクテ鎌倉ノ聖サキニ隠 レヌト聞テ。必往生シヌラム物ニ封付シ程ノ心ノタクミ ナレバトソ仙命聖人ハ云ケレ。其後夢ニ覚尊ニアヘリ。/n12r 先初ノ詞ニハ何レノ品ソト問ケレバ。下品下生也其タニ モホトホトシカリツルヲ。御房ノ御徳ニ往生トゲタルナリ。 日比橋ヲワタシ道ヲツクリシ行バカリニテハ叶ハサラ マシ。御ススメニヨリテ時々念仏ヲセシカバトソ云ケル。又 云仙命往生ハ叶ヒナムヤト問。其事ウタカヒナシ。ハヤク 上品上生ニ定マリ給ヘリト云トゾ見タリケル/n12l