発心集 ====== 第一第5話(5) 多武峰僧賀上人、遁世往生の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 僧賀上人((増賀))は経平((橘恒平))の宰相の子、慈恵僧正((良源))の弟子なり。 この人、幼なかりしに、碩徳、人に勝れたりければ、「行く末にはやんごとなき人ならむ」と、あまねくほめあひたりけり。 しかれども、心の内には、深く世を厭ひて、名利にほだされず、極楽に生れむことをのみぞ、人知れず願はれける。思ふばかり道心のおこらぬことをのみぞ歎きて、根本中堂に千夜参りて、夜ごとに千返の礼をして、道心を祈り申しけり。 始めは、礼のたびごとに、いささかも声立つることもなかりけるが、六七百夜になりては、「付き給へ、付き給へ」と忍びやかに言ひて、礼しければ、聞く人、「この僧は何事を祈り、『天狗付き給へ』と言ふか」なんど、かつは怪しみ、かつは笑ひけり。終り方になりて、「道心付き給へ」と、さだかに聞こへける時、「あはれなり」なんど言ひける。 かくしつつ、千夜満ちてのち、さるべきにやありけん、世を厭ふ心、いとど深くなりにければ、「いかでか、身をいたづらになさん」と、ついでを待つほどに、ある時、内論義といふことありけり。さだまることにて、論義すべきほどの終りぬれば、饗を庭に投げ捨つれば、もろもろの乞食、方々に集りて、争ひ取りて食らふ習ひなるを、この宰相禅師((増賀を指す。))、にはかに大衆の中より走り出でて、これを取つて食ふ。 見る人、「このの禅師は物に狂ふか」と、ののしり騒ぐを聞きて、「われは物に狂はず。かく言はるる大衆たちこそ、物に狂はるめれ」と言ひて、さらに驚かず。「あさまし」と言ひあふほどに、これをついでとして籠居しにけり。のちには、大和国多武峰といふ所に居て、思ふばかり勤め行ひて年を送りける。 そののち、貴き聞こえありて、時の后(きさき)の宮の戒師に召しければ、なまじひに参りて、南殿の高欄(かうらん)のきわに寄りて、さまざまに見苦しきことどもを言ひかけて、むなしく出でぬ。 また、「仏、供養せん」と言ふ人のもとへ行く間に、説法すべきやうなんど、道すがら案ずとて、「名利を思ふにこそ。魔縁便りを得てげり」とて、行き着くや遅き、そこはかとなきことをとがめて、施主といさかひて、供養をもとげすして帰りぬ。 これらのありさまは、人にうとまれて、再びかやうのことを言ひかけられじとなるべし。 また、師僧正((良源))、悦び申し給ひける時、先駆(せんくう)の数に入つて。乾鮭(からざけ)といふものを太刀にはきて、骨限なる女牛のあさましげなるに乗りて、「やかた口、つかまつらむ」とて、おもしろく折りまはりければ、見物の、怪しみ、驚かぬはなかりけり。かくて、「名聞こそ苦しかりけれ。かたゐのみぞ楽しかり」と歌ひて、うち離れにける。 僧正も凡人(ただびと)ならねば、かの「我こそ、やかた口打ため」とのたまふ声の、僧正の耳には、「悲しきかな。わが師、悪道に入りなむとす」と聞こえければ、車の内にて、「これも利生のためなり」となむ、答へ給ひける。 この聖人、命終らんとしける時、まづ、碁盤を取り寄せて、独り碁を打ち、次に障泥(あふり)を乞ふて、これをかづきて、小蝶((胡蝶))といふ舞ひの真似をす。弟子ども、怪しんで問ひければ、「いとけなかりし時、この二事を人にいさめられて、思ひなからむなしく止みにしが、心にかかりたれば、『もし、生死の執となることもぞある』と思うて」とこそ言はれけれ。 すでに聖衆の迎ひを見て、悦びて歌を詠む。   みづはさす八十(やそぢ)あまりの老いの波くらげの骨にあひにけるかな と詠みて、終りにけり。 この人の振舞ひ、世の末には物狂ひとも言ひつべけれども、境界離れんための思ひばかりなれば、それに付けても、ありがたきためしに言ひ置きけり。人にまじはる習ひ、高にしたがひ、下(さが)れるを哀れむに付けても、身は他人の物となり、心は恩愛のためにつかはる。これ、この世の苦しみのみにあらず。出離の大きなる障(さは)りなり。境界を離れんよりほかには、いかにしてか、乱れやすき心をしづめむ。 ===== 翻刻 ===== 多武峯僧賀上人遁世往生事 僧賀上人ハ経平ノ宰相ノ子慈恵僧正ノ弟子也。 此人少シニ碩徳人ニ勝タリケレバ行末ニハ無止人ナ ラムト普クホメ相タリケリ。然トモ心ノ内ニハ深ク世ヲ 厭テ名利ニホダサレズ極楽ニ生レム事ヲノミゾ人シ レス願ハレケル。思ハカリ道心ノ発ラヌ事ヲノミゾ歎テ 根本中堂ニ千夜参テ夜ゴトニ千返ノ礼ヲシテ道心 ヲ祈申ケリ。始ハ礼ノ度ゴトニ聊モ音立ル事モ無 リケルガ。六七百夜ニナリテハ付給ヘ付給ヘト忍ヤカニ云テ/n13l 礼シケレバ。聞人此僧ハ何事ヲ祈リ天狗付給ヘト 云カナンド且ハアヤシミ且ハ笑ケリ。終方ニナリテ道心 付給ヘトサダカニ聞ヘケル時哀ナリナント云ケル。斯シ ツツ千夜満テ後サルベキニヤアリケン世ヲ厭心イトト 深ク成ニケレバ争身ヲイタヅラニナサント次ヲ待ホドニ 有時内論義ト云事アリケリ。定ル事ニテ論義スベキ ホドノヲハリヌレバ饗ヲ庭ニナケスツレバ。諸ノ乞食方々ニ 集リテアラソヒ取テ食習ナルヲ。此宰相禅師俄ニ 大衆ノ中ヨリハシリ出テ此ヲ取テクフ。見ル人此ノ禅師 ハ物ニクルフカトノノシリサハグヲ聞テ我ハ物ニクルハズカク/n14r イハルル大衆達コソ物ニクルハルメレト云テ更ニ驚カズ。 アサマシト云アフ程ニ此ヲ次トシテ籠居シニケリ。後ニハ 大和国タフノ峯ト云所ニ居テ思ハカリ勤行テ年 ヲ贈ケル。其後貴キ聞アリテ。時ノ后ノ宮ノ戒師ニ 召ケレハ憖ニ参テ南殿ノカウランノキワニヨリテサマサマニ 見苦キ事共ヲ云カケテ空ク出ヌ。亦仏供養セント云 人ノモトヘ行間ニ。説法スベキ様ナント道スカラ案ストテ。 名利ヲ思ニコソ魔縁便ヲ得テゲリトテ。行ツクヤヲソキ。 ソコハカトナキ事ヲトガメテ施主トイサカヒテ供養ヲモ トゲスシテ帰リヌ。此等ノ有様ハ人ニウトマレテ再加様/n14l ノ事ヲ云カケラレジトナルベシ又師僧正悦申シ給ケル 時。センクウノ数ニ入テ。カラザケト云物ヲ太刀ニハキテ。 骨限ナル女牛ノアサマシゲナルニ乗テヤカタ口仕マツ ラムトテヲモシロク折マハリケレハ。見物ノアヤシミ驚ヌハナ カリケリ。カクテ名聞コソクルシカリケレ。カタイノミソタノ シカリトウタヒテ打離ニケル。僧正モ凡人ナラネハ彼我 コソヤカタクチウタメト宣音ノ。僧正ノ耳ニハ悲キ哉我 師悪道ニ入ナムトスト聞ヘケレバ。車ノ内ニテ此モ利生ノ 為ナリトナム答給ヒケル。此聖人命終ラントシケル時先 碁盤ヲ取寄テ独碁ヲ打。次ニ障泥ヲ乞テ是ヲ/n15r カヅキテ小蝶ト云舞ノマネヲス。弟子共アヤシムテ問 ケレバ。イトケナカリシ時此二事ヲ人ニイサメラレテ 思ナカラ空クヤミニシガ心ニカカリタレハ。若生死ノ執ト ナル事モソ有ト思テトコソ云レケレ。既聖衆ノ迎ヲ 見テ悦テ哥ヲヨム ミツハサス八十アマリノ老ノ浪クラケノ骨ニアヒニケル哉 ト読テヲワリニケリ。此人ノフルマイ世ノ末ニハ物クルヒ トモ云ツベケレドモ。境界離レンタメノ思バカリナレバ。其ニ 付テモ有ガタキタメシニ云置ケリ。人ニマジハル習ヒ高ニ 随ヒ下レルヲ哀ムニ付テモ。身ハ他人ノ物トナリ。心ハ/n15l 恩愛ノ為ニツカハル。是此世ノ苦ノミニ非ズ。出離ノ大 ナルサワリナリ。境界ヲ離レンヨリ外ニハイカニシテカ乱 ヤスキ心ヲシツメム/n16r