平中物語 ====== 第38段 この男市といふ所に出でて透き影によく見えければ ・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== この男、市といふ所に出でて、透き影によく見えければ、ものなど言ひやりけり。受領などの((底本「の」なし。))娘にぞありける。まだ、男などもせざりけり。后(きさい)の宮のお もと人にぞありける。 さて、男も女も、おのおの帰りて、男、尋ねておこせたる。   百敷(ももしき)の袂の数は知らねども分きて思ひの色ぞ恋ひしき かく言ひ言ひて、会ひにけり。 そののち、文(ふみ)もおこせず、またの夜も来ず。かかれば、「使ひ人など渡る」と聞きて、「人にしも、ありありて、かう音もせず、みづからも来ず。人をも奉れ給はぬこと」など言ふ。 心地に思ふことなれば、「くやし」と思ひながら、とかく思ひ乱るるに、四・五日になりぬ。女、ものも食はで、音(ね)をのみ泣く。ある人々、「なほ、かうな思(おも)ほしそ。人に知られ給はで、異事(ことごと)をもし給へ。さて、おはすべき御身かは」など言へば、ものも言はで籠り居て、いと長き髪をかきなでて、尼にはさみつ。使ふ人々、歎けど、かひなし。 来ざりけるやうは、来て、「つとめて、人やらむ」としけれど、官(つかさ)の長官(かみ)、「にはかに、ものへいます」とて率(ゐ)ていましぬ。さらに帰し給はず。からうじて、帰る道に、亭子院(ていじのいん)((宇多天皇))の召し使来て、「やがて参る。大堰(おほゐ)におはします御供につかうまつる」。そこにて、二三日は酔(ゑ)ひまどひて、もの思えず、夜更けて帰り給ふに、「行かむ」とあれば、方塞がりたれば((「方塞がりたれば」は、底本「ふかたふたかたりたれは」。))、皆、人々続きて違へに去ぬ。 「この女。いかに思ふらむ」とて、夜さり、心もとなければ、「文やらむ」とて、書くほどに、人、打ち叩く。「誰(たれ)そ」と言へば、「尉(ぞう)の君に、もの聞こえむ」と言ふを、さし覗きて見れば、この女の人なり。「文(ふみ)」とて、差し出でたるを見るに、切り髪を包みたり。あやしくて、文を見れば、   あまの川空なるものと聞きしかどわが目の前の涙なりけり 「尼になるべし」と思ふに目暗れぬ。返し、男。   夜をわぶる涙流れて早くともあまの川にはさやはなるべき 夜(よう)さり、行きて見るに、いとまがまがしくなん。まことや、「檜の隈川は渡る」とは見し。 富小路殿の右大臣殿((藤原顕忠))の方に言ひたるぞ。同じ右大臣殿の御母の、川原に出で給へるに、本院の大臣(おとど)((藤原時平))も出で給ひて、女車より消息(せうそこ)聞こえたりけれど、返り事もせで、帰り給ひにければ、女、   かからでもありにしものを笹の隈過ぐるを見てぞ消えは果てにし これを、のちに平中((平貞文))聞きて、女に言ひ奉る。   まことにや駒も留めて笹の舟檜の隈川は渡り果てにし 女、帰り事。   いつはりぞ笹の隈々ありしかば檜の隈川は出でて見ざりき ===== 翻刻 ===== とはいふものかまたこのをとこいちといふ所に いててすきかけによくみえけれはものなといひや りけりすりやうなとむすめにそありける またおとこなともせさりけりきさいの宮のを もと人にそありけるさておとこも女もおのおの かへりてをとこたつねてをこせたる ももしきのたもとのかすはしらねとも わきておもひのいろそこひしき かくいひいひてあひにけりそののちふみもを こせす又のよもこすかかれはつかひ人なと わたるとききて人にしもありありてかうおと/58ウ もせす身つからもこす人をもたてまつれ たまはぬことなといふ心ちにおもふことなれは くやしと思ひなからとかく思ひみたるるに 四五日になりぬ女ものもくはてねをのみな くある人々なをかうなおもほしそ人にしら れたまはてことことおもしたまへさておはすへ き御身かはなといへはものもいはてこもり ゐていとなかきかみをかきなててあまにはさ みつつかふ人々なけけとかひなしこさりける やうはきてつとめて人やらむとしけれと つかさのかみにわかにものへいますとてゐて/59オ いましぬさらにかへしたまはすからうして かへるみちにていしの院のめしつかひきて やかてまいるおほいにおはします御とんに つかうまつるそこにて二三日はゑひまと ひてものおほえす夜ふけてかへりたまふ にいかむとあれはかたふたかたりたれはみな人々 つつきてたかへにいぬこの女いかにおもふらむとて よさり心もとなけれはふみやらむとてかくほとに 人うちたたくたれそといへはそうのきみに ものきこえんといふをさしのそきて見れは この女の人なりふみとてさしいてたるを見るに/59ウ きりかみをつつみたりあやしくてふみをみ れは あまのかはそらなるものとききしかと わかめのまへのなみたなりけり あまになるへしとおもふにめくれぬかへし をとこ よをわふるなみたなかれてはやく ともあまのかはにはさやはなるへき ようさりいきてみるにいとまかまかしく なんまことやひのくまかははわたるとは見 しとみのこうちとのの右大臣とののかたにいひ/60オ たるそおなし右大臣とのの御ははのかはらに いてたまへるに本院のおとともいてたまひて 女くるまよりせうそこきこゑたりけれと かへりことんせてかへりたまひにけれは女 かからてもありにしものをささのくま すくるをみてそきえははてにし これをのちにへいちうききて女にいひたてまつる まことにやこまもととめてささのふねひ のくまかははわたりはてにし 女かへり事/60ウ いつはりそささのくまくまありしかは ひのくまかははいてて見さりき/61オ