平中物語 ====== 第36段 さてこの男その年の秋西の京極九条のほどに行きけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== さて、この男、その年の秋、西の京極九条のほどに行きけり。そのあたりに、築地(ついぢ)など崩れたるが、さすがに蔀(しとみ)など上げて、簾(すだれ)かけ渡してある、人の家あり。 簾(す)のもとに、女ども、あまた見えければ、この男、ただにも過ぎで、「などか、その庭は心すごけに荒れたる」など言ひ入れたれば、「誰(た)ぞ、かふ言ふは」など、問ひければ、「なほ、道行く人ぞ」と言ひ入る。築地の崩れより見出だして、この女、   人のあきに庭さへ荒れて道もなく蓬(よもぎ)茂る宿とやは見ぬ と書きて、出だしけれど、もの書くべき具さらになかりければ、たた口写しに、男。   誰があきにあひて荒れたる宿ならんわれだに庭の草は生ほさじ と言ひて、そこに久しく、馬に乗りながら立てらんことの、白々しければ、帰りてそれを始めにて、ものなと言ひやりける。「もし、籠り居てすかする人もこそあれ」と思ひて、たえて「その人の家」とも言はざりければ、ねんごろにも尋ね問はで、さて、なま疑ひてぞ、時々もの言ひやりける。 ほど久しくありて、また人やりたるに、「ここにおはしましし人は、はや、ものへおはしにき」とて、口惜しき者、ただ一人ぞ居(を)りける。「『もし、人賜はば、取らせよ』とて、これなん賜ひ置きたる」とて、いささかなる文ぞある。 使、「しかじかなん、言ひつる」とて、語れば、「あやし」と思ひて、「もし、行き所やある」とて、急ぎ開けて見れば、ただ、かくなん、   わが宿は奈良の都ぞ男山越ゆばかりにしあらば来て問へ とのみありければ、男、いたく思ひ口惜しがりて、この住みけるところに人やりて、宿守(やどもり)に物くれさせて問へど、「ただ奈良へとなむ承る。それより異所(ことどころ)は、ここかしことも承らず」と言へば、「たづねむ方なくなむ((「なくなむ」は、底本「くなむ」))。奈良と聞きては、いづくをいづことかたづねん」と思ひて、しばしこそありけれ、思ひ忘れて、年月になりぬ。 さて、この親、忍びて初瀬(はつせ)へ詣(ま)でけり。ともに、この男も詣(まう)でけり。「男山越ゆばかり((「ばかり」は底本「ははかり」。衍字とみて一時削除。))」とあることを思ひ出でて、「あはれ、さ言へる人のありしはや」とぞ、供なる人に語らひける。 さて、初瀬(はせ)へ詣(まう)でにけり。帰り来けるに、飛鳥本(あすかもと)といふわたりに、あひ知りてある大徳(だいとこ)たちも、俗も出で来て、「今日は日端(ひはした)になりぬ。奈良坂のあなたには、人の御宿りもなし。ここにとどまらせ給へ」と言ひて、門(かど)並びに、家二つを一つに造り合はせたるがをかしきにぞ、留めける。 さりければ、とどまりにけり。あるじなどし、人々もの食ひて、騒がしきこと、静まりて、なま夕暮になりにけり。この男、門の方にたたずまひて見けり。 この南なる家の門より、北なる家までは、楢(なら)の木といふを植え並めたりける。「あやしくもあるかな。異(こと)木も無くて、これしも」など言ひて、この北なる家に這ひ入りて、さし覗きたりければ、蔀などさし上げて、女ども、あまた集り居り。「あやし」など、おのがどち集まりて、この男の供なる人を呼ばせて、「この覗き給へる人は、この南に宿り給へるか」と問ふ。「さなり」。「さて、その人ぞ」など問へば、この男の名をぞ答へける。いと、いたう、おのがどち言ひあはれがりて、「われ、いかに。築地の崩れより、一目見しを忘れざりけり」。 それをほのかに聞きて、この男は、「それなるべし」と思ひて、「あやしくもありけるかな。ここにしも、かう宿りに来るよ」と思ふに、嬉しくもあり、また、「男の迎へて据(す)ゑたるにやあらむ」など、とかく思ひ乱れて居たるに、かく言ひ出だしたり。   くやしくぞ奈良へとだにも付けてける玉桙(たまぼこ)にだに来ても問はねば と書きて出だしたるを見れば、かの、「庭さへ荒れて」と言へりし人の手なり。京のなまゆかしうなりゆけるに、あはれしう、をかしうぞ思えける。 さて、硯乞ひ出でて、かくなん、   ならの木のならぶ((「ならぶ」は底本「ならに」))門とは教へねど名にや負ふとぞ宿は借りつる と言ひたれば、「あな、うちつけのことや」と((底本「と」なし。))言ひて、また、かくぞ言ひける。   門過ぎて初瀬川まで渡れるもわがためにとや君はかこたむ とありければ、この男、またかくぞ言ひ入れたりける。「聖徳太子の家とぞ求めける。のどめきてよ」   ひろのもの君もや渡りあふとてぞ初瀬川までわが求めつる さ言ふほどに、暗うなりにけり。「なほ、ここに立ち寄れかし」と言ひければ、おぼつかなく、たづねわびつることを、よろづに言ひ語らひけるに、明け行けば、偽り病みして留まりなまほしかりけれど((底本「なほしかりけれど」。諸説によって訂正。))、あやしく親にしたがへる人にて、「夜(よ)の間、外(ほか)なるをだに、かかる旅にあること」と思ひて、かつは歎きつつぞ、人ともの言ひつつ、「いかでか留まるべき」と心に思ひて、明けければ、「立ち帰り、必ず参り来(き)なむ。今度(こたみ)待ちて、心ざしは有り無し見給へ」とて、親の宿れる南へ去ぬ。さて、やる。   朝まだき立つ空もなし白波の返る間もなく帰り来ぬべし と言へれば、「さらば、いかがはせん。とく帰り給へ。遅くは、えしも対面せじ」とて、   待つほどに君帰り来で猿沢の池の心をのちに恨むな みな出で立ちて、馬に乗るに、この男、く苦しうなりて、「かう言へる」とて、「げに、立ち帰り、来ぬべきことをや言はまし」と思へど、さては長居して、少しもこそ遅るれ」と、親の心を世に知らず包みければ、え行かで、かかることを言ひやる。   大方はいづちも行かじ猿沢の池の心もわが知らなくに かく、言葉ぞや。 ===== 翻刻 ===== しくもなかゐてかへりきにけりさてこの男 そのとしのあきにしの京こく九条のほと にいきけりそのあたりについちなとくつれ たるかさすかにしとみなとあけてすたれか けわたしてある人のいゑありすのもとに女とん/52ウ あまたみえけれはこのおとこたたにも すきてなとかそのにわわ心すこけにあれたる なといひいれたれはたそかふいふはなとと ひけれはなほみちゆく人そといひ入ついち のくつれより見いたしてこの女 人の秋ににはさへあれてみちもなくよ もきしけるやととやは見ぬ とかきていたしけれとものかくへきく さらになかりけれはたたくちうつしに男 たか秋にあひてあれたるやとならん 我たににはのくさはおほさし/53オ といひてそこにひさしくむまにのりなから たてらんことのしらしらしけれはかへりてそ れをはしめにてものなといひやりけるもし こもりゐてすかする人もこそあれとおもひ てたえてその人のいゑとんいはさりけれはねん ころにもたつねとはてさてなまうたかひて そときときものいひやりけるほとひさしくありて 又人やりたるにここにおはしましし人ははや ものへおはしにきとてくちをしき物たたひと りそをりけるもし人たまははとらせよとて これなんたまひおきたるとていささかなる文/53ウ そあるつかひしかしかなんいひつるとてかたれは あやしとおもひてもしいきところやあると ていそきあけて見れはたたかくなん わかやとはならの宮こそおとこやまこゆ はかりにしあらはきてとへ とのみありけれはおとこいたくおもひく ちをしかりてこのすみけるところに人やり てやともりにものくれさせてとへとたた ならへとなんうけたまはるそれよりこと ところはここかしこともうけたまはらすといへ はたつねんかたくなんならとききてはいつく/54オ をいつことかたつねんとおもひてしはしこそあ りけれおもひわすれてとしつきになりぬ さてこのをやしのひてはつせへまてけりと もにこのおとこもまうてけり男やまこゆは はかりとあることをおもひいててあはれさいへる 人のありしはやとそともなる人にかたらひけ るさてはせへまうてにけりかへりきけるにあ すかもとといふわたりにあひしりてあるたいと こたちもそくもいてきてけふはひはしたに なりぬならさかのあなたには人の御やとり もなしここにととまらせたまへといひてかと/54ウ ならひにいゑふたつをひとつにつくりあはせ たるかおかしきにそととめけるさりけれは ととまりにけりあるしなとし人々ものくひて さはかしきことしつまりてなまゆふくれに成 にけりこのおとこかとのかたにたたすまひて 見けりこのみなみなるいゑのかとよりきた なる家まてはならの木といふをうゑなめたり けるあやしくもあるかなこと木もなくてこれ しもなといひてこのきたなる家にはひ入て さしのそきたりけれはしとみなとさし あけて女ともあまたあつまりおりあやしなと/55オ おのかとちあつまりてこの男のともなる人 をよはせてこののそきたまへる人はこの南 にやとりたまへるかととふさなりさてその人 そなととへはこのおとこのなをそこたへける いといたうをのかとちいひあはれかりてわれ いかについちのくつれよりひとめみしをわす れさりけりそれをほのかにききてこの男は それなるへしとおもひてあやしくもあり けるかなここにしもかうやとりにくるよと思 にうれしくもあり又おとこのむかへてすゑた るにやあらむなととかく思ひみたれてゐたるに/55ウ かくいひいたしたり くやしくそならへとたにもつけてける たまほこにたにきてもとはねは とかきていたしたるを見れはかのには さへあれてといへりし人のてなり京のな まゆかしうなりゆけるにあはれしうをか しうそおほえけるさてすすりこひいててかく なん ならの木のならにかととはをしへねと なにやおうとそやとはかりつる といひたれはあなうちつけのことやいひて/56オ またかくそいひける かとすきてはつせかはまてわたれるも わかためにとやきみはかこたん とありけれはこの男またかくそいひ入た りけるさうとくたいしのいへとそもとめける のとめきてよ ひろのものきみもやわたりあふとてそ はつせ川まてわかもとめつる さいふほとにくらうなりにけりなをここに たちよれかしといひけれはおほつかなくた つねわひつることをよろつにいひかたらひけるに/56ウ あけゆけはいつはりやみしてととまりなほし かりけれとあやしくおやにしたかへる人にて よのまほかなるをたにかかるたひにある ことと思ひてかつはなけきつつそ人ともの いひつついかてかととまるへきと心に思ひてあけ けれはたちかへりかならすまいりきなんこ たみまちて心さしはありなし見たまへ とておやのやとれる南へいぬさてやる あさまたきたつそらもなし白浪の かへるまもなくかへりきぬへし といへれはさらはいかかはせんとくかへりたまへ/57オ おそくはゑしもたいめんせしとて まつほとにきみかへりこてさるさはの 池のこころをのちにうらむな みないてたちてむまにのるにこのおとこく るしうなりてかういへるとてけにたちかへり きぬへきことをやいはましとおもへとさては なかゐしてすこしもこそおくるれとをやの こころをよにしらすつつみけれはえいかてかかる事 をいひやる おほかたはいつちもゆかしさるさはの池 の心もわかしらなくに/57ウ かくことはそやまたこのをとこひとつを/58オ