平中物語 ====== 第35段 また男いささか人に言はれ騒がるることありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== また、男、いささか人に言はれ、騒がるることありけり。そのこと、いとものはかなき虚言(そらご)とを、あだめける人の作り出でて言へるなりけり。 さりければ、「かう、心憂きこと」と思ひなぐさめがてら、「心をやらむ」と思ひて、津の国の方へぞ行きける。 忍びて知る人のもとに、「かうてなむ罷(まか)る。憂きことなど、なぐさみやする」と言へりければ、   世の憂きを思ひながすの浜ならばわれさへともに行くべきものを とある返し。   憂きことにいかで聞かじと祓へつつ違(ちが)へながすの浜ぞいざかし とて去にけり。 行き着きて、長洲の浜に出でて、網引かせなど遊びけるに、うらうらと春なりければ、海、いとのどかになりて、夕暮れになるままに、いつの間にか思ひけむ、憂かりし京のみ恋しくなりゆきければ、思ひながめつつ、心の内に言はれける。   はるばると見ゆる海辺をながむれば涙ぞ袖の潮と満ちける((「ける」は底本「けな」)) とぞ、ながめ暮しける。 さて、その朝(あした)に、「さなむありし」と文(ふみ)に書きて、京の((底本「の」なし。))かの罷り申しせし人のもとに言ひたりける。女、   渚なる袖まで潮は満ち来(く)とも葦火(あしび)焚く屋しあれば干(ひ)ぬらむ などなむ、言ひおこせたりける。 さりければ、久しくも長居で、帰り来にけり。 ===== 翻刻 ===== すみけりとおもひてたえにけるまた男 いささか人にいはれさはかるることありけり そのこといとものはかなきそらことをあた めける人のつくりいてていへるなりけり さりけれはかう心うきことと思ひなくさめ かてら心をやらむとおもひてつの国のかたへ そいきけるしのひてしる人のもとにかうて なむまかるうき事なとなくさみやする といへりけれは 世のうきをおもひなかすのはまならは 我さへともにゆくへきものを/51ウ とあるかへし うきことにいかてきかしとはらへつつち かへなかすのはまそいさかし とていにけりいきつきてなかすのはまに いててあみひかせなとあそひけるにうらうらと 春なりけれはうみいとのとかになりて ゆふくれになるままにいつのまにかおもひけ むうかりし京のみこひしくなりゆきけ れはおもひなかめつつ心のうちにいはれける はるはるとみゆるうみへをなかんれはなみ たそそてのしほとみちけな/52オ とそなかめくらしけるさてそのあした にさなんありしとふみにかきて京かのまかり まうしせし人のもとにいひたりける女 なきさなるそてまてしほはみちくとも あしひたくやしあれはひぬらんなと なんいひをこせたりけるさりけれはひさ しくもなかゐてかへりきにけりさてこの男/52ウ