平中物語 ====== 第34段 またこの男忍びたるものからはやむまと思はぬ人の・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== また、この男、忍びたるものから、はやむまと思はぬ人の、的(まと)思ひに思ひて、住むぞありける。 この男の住みける間に、こよなう勝りたる人などに、もの聞こゆる気色見えけり。それを、この先立(さいた)て住みける男も入りてありける宮なりければ、気色に疑ひつつ、この女を恨み言ひけり。 されど、この今からもののたまふ男は、上にも褻(け)にも、心にまかせて交り歩(あり)く人なれば、え守り合ふべくもあらぬほどに、口惜しきこと、会ひにける。 また、さらぬ顔作りてぞ、この男は語らひける。この男、はた、え((底本「へ」))言ふまじきやうにぞありければ、女をぞ、ひたみちに「つらし」と思ひける。 さて、この初めの男の言種(ことぐさ)に、「逢坂(あふさか)」といふことを言ひければ、「逢坂」をぞ付けたりける。それを思ひて、かくぞ言ひやりける。   逢坂とわが頼みくる関の名を人守る山と今は変ふるか 返し。   逢坂は関といふことに高ければ君守る山と人をいさめよ とて、いみじうあらがひたりければ、また、男、   偽りをただすの森の木綿襷(ゆふだすき)かけて誓へよわれを思はば と言ひたれど、「里へ出でぬ」とて、返り事もせざりければ、男、思ひ憂じて、また、ものも言はで、そのころ経(へ)ける。 さて、この男、時々行く所ありけるに、ほのぼのと明くるほどにぞ帰りける。この、かう言ふ女の家のあたりより行きけるに、「『里へ』と言ひしはまことか」とて、「ものの気色も見む」と思ひ放(はな)たで、門(かど)の内の方に、車など引き立てて、この品(しな)高き男の供なる男どもなど、あまた立てりけり。そのかみ、もの言はで、奥にはひ入りて隠れ立ちて見れば、女、蔀(しとみ)押し上げて、かの高き人をぞ出だしける。 この男、「かう、うつつに見つることの心憂きこと」と思ひて、世に知らず心憂かりけれど、「もの一言をだに言はむ。さても、『はた、見けり』とこそは思はれめ」とて、板敷の端に立ち寄りて、声高く、「あな、おもしろの花や」と言へば、この女、奥へも入り果てざりければ、あやしがりて、さしのぞきたり。 見合はせて、「いかでかは、ここにかうは」と言へば、「この前栽(せんざい)の花の、目に見す見す移ろふ、見果てになむ参り来つる」とぞ言ひける。 その屋の前に、桜のいとおもしろく咲きて、春の果てがたにやありけむ、散りけり。それを見て、男、   あらはなることあらがふな桜花春を限りと散るは見えつつ と言ひて、ふと出でて行きければ、「えこそ、しばしや」と言ひけれど、「いとかう憂し」と思ひて止まらざりければ、しひて、かくなん、   色に出でてあだに見ゆとも桜花風し吹かずは散らじとぞ思ふ と言へりけれど、「ものへ出でぬ」とて、返り事もせざりけり。 さて、かののち((底本「かのちち」))に住みける高き男も、このもとの男の、女の((底本「の」なし。))家に入り代りけるを、見ける人なん語りければ、「さは、今も住みけり」と思ひて絶えにける。 ===== 翻刻 ===== 又このおとこしのひたるものからはやむまと おもはぬ人のまとおもひに思ひてすんそあ りけるこのおとこのすみけるあいたにこよな うまさりたる人なとにものきこゆる気色 みえけりそれをこのさいたてすみける男/48ウ もいりてありける宮なりけれは気色 にうたかひつつこの女をうらみいひけりされと このいまからもののたまふおとこは上にもけ にも心にまかせてましりありく人なれは えまもりあふへくもあらぬほとにくちをしき ことあひにけるまたさらぬかほつくりてそこ のをとこはかたらひけるこの男はたへいふまし きやうにそありけれは女おそひたみちにつら しとおもひけるさてこのはしめのおとこのこと くさにあふさかといふことをいひけれはあふさかを そつけたりけるそれをおもひてかくそいひ/49オ やりける あふさかとわかたのみくるせきのなを 人もる山といまはかうるか かへし あふさかはせきといふことにたかけれは きみもるやまと人をいさめよ とていみしうあらかひたりけれは又男 いつはりをたたすのもりのゆふたすき かけてちかへよわれをおもはは といひたれとさとへいてぬとてかへり事も せさりけれはおとこおもひうして又物も/49ウ いはてそのころへけるさてこのおとこときとき いくところありけるにほのほのとあくるほとに そかへりけるこのかういふ女のいゑのあたりよ りいきけるにさとへといひしはまことかとてものの けしきも見んとおもひはなたてかとのうち のかたにくるまなとひきたててこのしなた かき男のともなるおとこともなとあまた たてりけりそのかみものいはてをくに はひいりてかくれたちてみれは女しとみをし あけてかのたかき人をそいたしけるこの男 かううつつに見つることの心うき事と思ひて/50オ よにしらす心うかりけれともの一ことをたに いはむさてもはた見けりとこそはおもはれ めとていたしきのはしにたちよりて こゑたかくあなおもしろのはなやといへは この女おくへもいりはてさりけれはあや しかりてさしのそきたりみあはせて いかてかはここにかうはといへはこのせんさい の花のめに見す見すうつろふ見はてにな むまいりきつるとそいひけるそのやのま へにさくらのいとをもしろくさきて春のはてか たにやありけんちりけりそれをみて男/50ウ あらはなることあらかふなさくら花春を かきりとちるは見えつつ といひてふといててゆきけれはえこそしは しやといひけれといとかううしとおもひてとま らさりけれはしゐてかくなん いろにいててあたに見ゆとんさくらはな 風しふかすはちらしとそおもふ といへりけれとものへいてぬとてかへり事も せさりけりさてかのちちにすみけるたかき おとこもこのもとのおとこの女いへにいりかはり けるをみける人なんかたりけれはさはいまも/51オ すみけりとおもひてたえにけるまた男/51ウ