平中物語 ====== 第25段 またこの男志賀へとて詣づるに逢坂の走り井に・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== また、この男、「志賀((志賀寺))へ」とて詣づるに、逢坂の走り井に、女どもあまた乗れる車を、牛おろして立てたりければ、この男、馬から下りて、とばかり立てりけるに、車、「人来ぬ」と見て、牛掛けさせて行きけり。 この男、車の供なる人に、「いづちおはします人ぞ」と問ひければ、「志賀へ」と答へければ、女車より少し立ち遅れて行きければ、かの逢坂の関越えて待つ。 来けるあひだに、車より、かかることぞ言ひたる。   逢坂の何頼まれぬ関川の流れて音に聞く人を見て かかりければ、「あやし」と見て、さすがに来て、男、返し、   何頼むわれも通はむ逢坂を越ゆれば君にあふみなりけり と言ひて、この女、「いづちぞ」と言ひければ、男、「志賀へなん詣づる」と言ひければ、やがて、「さは、もろともに。ここにもさなむ」とて、行きける。 「さりとて、嬉しきこと」とて、もろともに詣でて寺に詣で着きても、男の局(つぼね)、女の局近くなんしたりける。かくて、物語などあまたをかしきやうに、かたみに言ひければ、「をかし」と思ふ。 この男、詣でたる所より、寺ぞ塞(ふた)がりける。明くるまで、えあるまじかりければ、違(たが)ふべき所々行きけり。「命惜しきことも、ただ行く先のためなり」と言ひて、行きければ、女どもも、なほ、あるよりはものさうざうしくて((「さうざうしくて」は底本「さうさうさしくて」。「さ」一時衍字とみて削除。))、「さらば、いかがはせん。京にてだにとぶらへ」とて、内わたりに宮仕へしける人々なれば、曹司(ざうし)も使ひける人の名ども問ひけり。 この男、うちつけながらも、立つこと惜しかりければ、かうぞ、   立ちて行く行方(ゆくゑ)も知らずかくのみぞ道の空にて惑ふべらなる 女、返し、   かくのみし行方惑はばわか魂(たま)をたぐへやせまし道のしるべに 「また、かへしせむ」とするほどに、男・女の供なる者ども、「夜明けぬべし」と言ひければ、立ちとどまらで、この男、浜辺のかたに、人の家に入りにけり。 さて、あしたに、「車に会はむ」とて、網曳かせなどしけるに、知れる人、「逍遥((底本「せうえん」))せむ」とて、呼びければ、そちぞ、この男は去にける。 そのほどに、この女は帰り来て、内に参りて、友達どもに、志賀に詣でて、ありつるやうなど言ひける。それを、この男とも、ものなど言ひて知れるが、その中にありける。「さて、この男は誰(たれ)とか言ひつる」と言ひければ、名を言ひけければ((底本「いひけければ」。「け」の一字衍字をみて削除。))、この「悪し」と思ひける女、「あれはさこそあれ、それが憂きこと」とて、世になくあさましきことを作り出だしつつ、言ひ散らしければ、「あな、いとほし。知らで過ぎぬべかりけり。さらば、いと心憂き者にこそありけれ。もし、人来とも、その文(ふみ)取り入るな」と、使ふ人に皆教へてけり。 それをば知らで、この男、帰り来て、教へにしたがひて、人をやりたれば、「いまだ里になむ。『志賀へ』とて、まかで給ひにしままに、参り給はず」とて、文も取らずなりにければ、使、帰りて、「さなむ言ひつる」と言ひければ、案内(あんない)を知らで、しきりつつ、二・三日やりけれど、つひに取り入れずなりにければ、かの志賀にゐて参りける友達めきたるが、ものの故(ゆゑ)知りたるを、この男、呼びにやりて、ことのあるやう、ありしことなど、もろともに見ける人なれば、「げにあやし。人や言ひ損ひたらむ」などぞ言ひける。 この男、前栽(せんざい)を見て、口遊びに、   助くべき草木ならねどあはれとぞもの思ふ人の目には見えける などぞ、言ひゐたりける。 この友達、「げに、ことはりや」などぞ、いらふるほどに、日暮れて、月いとおもしろかりければ、「いざ、西の京わたりに、時々もの言ふわたりに、物語などせん」とて、いざなひければ、もろともに行きけり。 かの志賀のことのみ恋ひしかりければ、女、初(はじ)め言ひたる歌を振り上げつつ、甲斐歌に歌ひ行きけり。 かかるに、先に立ちて車行く。やうやう朱雀(すざか)のあひだに、この車に付きて、なほ歌ひ行きければ、この車より、「この言ひ人定けき歌を盗みて、朱雀にてしも歌ふ」と言ひおこせたりければ、この男、あやしきことのみ千種(ちぐさ)に思えて、「かう咎め給ふ人もや、ものし給ふとて」と言ひたれば、車より、「いとよう知れる人の、憂きことどものありける、言ひし聞きしかば、心憂し、言はじ」と言ひければ、「さらば、これは志賀の人なるべし」と思ふに、世に無き心地しければ、「さにや」と問ひけるに、女、「さぞ」と答へければ、男、「ただ片時とどめ給へ」とせめければ、「よし、さらば、耳とがばかりに聞かむ」とて、男、馬から下りて、車のもとに寄りて、「いづちとて、おはしますぞ」など言ひければ、「あからさまに、里へまかりつるぞ」と言ふ。この男、文を取らせで帰りしこと、いみじく言ひ恨みければ、深う憂きやうに言ひければ、をさをさ答へもせずなりにければ、この男、「ひたおもむきにもあるべきかな。よろづに憂きことを人言ふとも、かうやは」と思ひてぞ、車のもとを立ちしぞきける。 さりければ、車を掛けむとしければ、この男、なほしばし言ひとどめて、「『誰か、このあやしきことどもは』と問はむ」と思ひて、供なりける男して、「身もいと憂く、御心も恨めし。『身も投げむ』とてまかりつるを、ただ一言聞きおくべきことなん、ありける。さても、この川、え渡らでなん、帰り詣で来ぬる」とて、   身の憂きを厭ひ捨てにと来つれども涙の川は渡る瀬もなし 返し。   まことにて渡る瀬なくはな涙川流れて深きみをと頼まむ と言ひて、「なほ、立ち寄れ。もの一言は言はむ」と言へば、男、車のもとに立ち寄りにけり。 さて、夜、やうやう暁方になりにければ、この女、「今は去なむ」とて、「ゆめ、今宵だに、いまだ人にかかりとな。うつつとはさらに」とて、   秋の夜の夢ははかなく会ふといふを と言へば、男、   春に帰りてまさしかるらむ と言ひけるほどに、すくすくと明かくなりにければ、「今は、はや、おはせむ所へおはしね」と言へば、「この女の入らむ所を見む」とて、男、行かざりければ、女、「家を見せじ」と思ひて、せちに怨(ゑ)じけり。 されば、かくなん。   ことならば明かし果ててよ衣手に触れる涙の色も見すべく 返し。   衣手に触れる涙の色見むと明かさばわれもあらはれねとや と言ふに、いと明かくなれば、童一人をとどめて、「この車の入らむ所を見て来(こ)」とて、男は帰りにけり。童、見て来ぬ。いかがなりにけむ。 ===== 翻刻 ===== をやにつつみけれはさてやみぬまたこの おとこしかへとてまうつるにあふさかのはし りゐに女とんあまたのれるくるまをうし おろしてたてたりけれはこのおとこむ まからをりてとはかりたてりけるにく るま人きぬとみてうしかけさせていき けりこのおとこ車のともなるひとにいつち おはします人そととひけれはしかへとこ たへけれは女車よりすこしたちをく れていきけれはかのあふさかのせきこえて まつきけるあいたにくるまよりかかる事/31ウ そいひたる あふさかのなにたのまれぬせき川 のなかれておとにきく人をみて かかりけれはあやしと見てさすかにきてを とこかへし なにたのむわれもかよはんあふさかを こゆれはきみにあふ身なりけり といひてこの女いつちそといひけれはおとこ しかへなんまうつるといひけれはやかてさは もろとんにここにもさなんとていきけるさ りとてうれしきこととてもろともにまう/32オ てて寺らにまうてつきてもおとこのつほね 女のつほねちかくなんしたりけるかくて物か たりなとあまたおかしきやうにかたみにい ひけれはをかしとおもふこのおとこまうて たる所よりてらそふたかりけるあくるま てえあるましかりけれはたかふへき所々ゆ きけりいのちをしき事もたたゆくさき のためなりといひていきけれは女とももなを あるよりはものさうさうさしくてさらはいかかは せん京にてたにとふらへとてうちわたりに 宮つかへしける人々なれはさうしもつかひ/32ウ ける人のなともとひけりこのおとこう ちつけなからもたつ事をしかりけれはか うそ たちてゆく行ゑもしらすかくのみそ 道のそらにてまとふへらなる 女かへし かくのみしゆくゑまとははわかたまを たくへやせましみちのしるへに 又かへしせむとするほとにをとこ女のとも なるものとも夜あけぬへしといひけれは たちととまらてこの男はまへのかたに人の/33オ いゑにいりにけりさてあしたに車に あはむとてあみひかせなとしけるにし れる人せうえんせむとてよひけれはそち そこのおとこはいにけるそのほとにこの女は かへりきてうちにまいりてともたちとも にしかにまうててありつるやうなといひけ るそれをこのおとことも物なといひてしれ るかそのなかにありけるさてこのおとこ はたれとかいひつるといひけれはなをいひけ けれはこのあしと思ひける女あれはさこそ あれそれかうきこととてよになくあさま/33ウ しきことをつくりいたしつついひちらし けれはあないとほししらてすきぬへかりけ りさらはいと心うきものにこそありけれも し人くとんそのふみとりいるなとつかふ 人にみなおしへてけりそれをはしらてこの おとこかへりきてをしへにしたかひて 人をやりたれはいまたさとになんしかへとて まかてたまひにしままにまいりたまはす とてふみもとらすなりにけれは使かへりて さなんいひつるといひけれはあんないをしら てしきりつつ二三日やりけれとついにとりい/34オ れすなりにけれはかのしかにゐてまいり けるともたちめきたるかもののゆへしり たるをこのおとこよひにやりてことのある やうありし事なともろともに見ける人 なれはけにあやし人やいひそこなひたら むなとそいひけるこのおとこせんさいお見て くちあそひに たすくへきくさきならねとあはれと そものおもふ人のめには見えける なとそいひゐたりけるこのとんたちけに ことはりやなとそいらふるほとに日くれて/34ウ 月いとをもしろかりけれはいさにしの 京わたりにときときものいふわたりにもの かたりなとせんとていさなひけれは もろとんにいきけりかのしかのことのみ こひしかりけれは女はしめいひたる哥 をふりあけつつかひ哥にうたひゆき けりかかるにさきにたちて車ゆく やうやうすさかのあひたにこのくるまに つきてなをうたひゆきけれはこの くるまよりこのいひ人さたけきうたを ぬすみてすさかにてしもうたふといひを/35オ こせたりけれはこのおとこあやしき ことのみちくさにおほえてかうとかめ たまふ人もやものしたまふとてといひた れはくるまよりいとようしれる人のう き事とものありけるいひしききしかは 心うしいはしといひけれはさらはこれは しかの人なるへしとおもふによになき 心ちしけれはさにやととひけるに女さそ とこたえけれはおとこたたかたときととめた まへとせめけれはよしさらはみみとかはか りにきかむとて男むまからおりて車の/35ウ もとによりていつちとておはしますそ なといひけれはあからさまにさとへまかりつるそ といふこのおとこふみをとらせてかへりし事 いみしくいひうらみけれはふかううきやうに いひけれはをさをさこたへもせすなりにけ れはこのおとこひたをもむきにもあるへ きかなよろつにうきことを人いふともかう やはとおもひてそくるまのもとをたちし そきけるさりけれは車をかけんとしけれは このおとこなをしはしいひととめてたれか このあやしきことともはととはむとおもひて/36オ ともなりけるをとこして身もいとうく御心 もうらめし身もなけんとてまかりつるを たたひとことききおくへき事なんありける さてもこのかはえわたらてなんかへりまうてき ぬるとて 身のうきをいとひすてにときつれとも なみたのかははわたるせもなし かへし まことにてわたるせなくはなみたかは なかれてふかき身をとたのまん といひてなをたちよれものひとことはいは/36ウ むといへはおとこくるまのもとにたちより にけりさて夜やうやうあかつきかたになりに けれはこの女いまはいなんとてゆめこよひたにい また人にかかりとなうつつとはさらにとて あきのよのゆめははかなくあふといふを といへはをとこ はるにかへりてまさしかるらむ といひけるほどにすくすくとあかくなりにけれは いまははやおはせんところへおはしねといへは この女のいらむところをみむとておとこいかさ りけれは女いゑを見せしとおもひてせちに/37オ ゑしけりされはかくなん ことならはあかしはててよころもてにふ れるなみたのいろもみすへく かへし ころもてにふれるなみたのいろみむと あかさは我もあらはれねとや といふにいとあかくなれはわらはひとりをととめて このくるまのいらむところをみてことておとこは かへりにけりわらはみてきぬいかかなりにけ ん又おとこしのひてしれる人ありけり/37ウ