平中物語 ====== 第9段 またこの男音聞きに聞きならしつつ思ひいどむ人ぞありける・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== また、この男、音聞きに聞きならしつつ、思ひいどむ人ぞありける。さりけれど、え言ひつかざりけるほどに、かの女、はた、この男を聞き、いどみて、かかることをぞ、まづ言ひたりける。   心あだに思ひさだめず吹く風の大空者(おほそらもの)と聞くはまことか と言ひたるを、「あやし」とは思ひながら、「いかで」と思ふところより、さ言ひに来たれば、喜びて、返し  ただよひて風にたぐへる白雲(しらくも)の名をこそ空の者と言ふなれ また、女、桜の花のおもしろきに付けて、   まさぐらばをかしかるべき物にぞあるわが世久しく移らずもがな 男、返し。   今年より春の心し変らずはまさぐられつつ君がか手にへむ((「へむ」は底本「つん」)) とぞ言ひたりけるを、「をかし」とや思ひけむ、「よそにても言はんことを聞かむ」などぞ言ひたる。されば、男、急ぎ来たれば、ものなど言ひて、その夜はよそながら帰りにけり。 朝(あした)に、女のもとより、   吹く風になびく草葉とわれは思ふ夜半に置く露のきもかれずな かかれば、「いと口惜しう契られぬること」と言ひて、男、返し。   深山(みやま)なる松は変らじ風下(かざした)の草葉と名乗る君はかるとも さて、暮れに来たり。明けぬれば帰りぬ。 かの女の親族(しぞく)、男見付けてけり。「さて、おのが目に、これより出でて去ぬるは」。女、「知らず。よにあらじ」。「よし、かうしあらば、この出でぬる男のもとに行きて問はむ」とぞ言ひける。ようあひ言ふなるにぞありける。さりければ、「そこにて問はんものぞ。今朝、出で給ひつるを見てけり。もし、聞きて問はば、かう答へよ」とて、言ひたる。   ちはやぶる神てふ神も知らるらん風の音にもまだ知らずてへ((「てへ」は底本「らへ」)) とてやりたる返り事。   白河のしらずとも言はじ底清み流れてよよにすまむと思へば となんありける。 さて、また、この男、行きて、また朝(あした)に、女、言ひたり。   言の葉の人頼めなるうき露のおきて去ぬるぞ消えて恋しき 返し。   あはれあはれおきて頼むな白露はおもひに草のはやかるるとぞ かくて、ありわたるに、逍遥せまほしかりければ、難波の方へぞ行きける。そのほど、「たひらかにものし給へ。これは但馬の国より持て来たる、『たにもかく』といふものをやる」とて、   片時の別れだにかくわびしきを と言ひたれば、女、   行き返るまにわれは消(け)ぬべし 「さらば」など言ひて、また、女、   難波潟朝満つ潮の早く来ね淀まば水(み)の泡たへず消(け)ぬべし 男、返し。   干る潮の満ちかへる間に消(け)ぬべくは何か難波のかたをだに見ん と言ひて、難波へも行かず、あはれがりて留まりぬ。 さて、この心変るやうにしければ、   あひ見てののちぞくやしさまさりけるつれなかりける((「つれなかりける」は、底本「つれなりける」))心と思へば とあるを見て、男、   見てのみぞわれはもえ増す春山のよそのなげきを思ひつぎつつ といらへど、なほ心ざしのおろかなるやうに見えければ、女、   今よりは富士の煙(けぶり)も世に絶えじもゆる思ひの胸に絶えねば 男、返し。   くゆる思ひ胸に絶えずは富士の嶺(ね)のなげきとわれもなりこそはせめ さて、そのころ((底本、「さてそのころさてそのころ」と二回続く。衍字と見て削除。))、ひさしく行かざりければ、男、いとほしがりて、またつとめて、かくなん。   うちとけて君は寝ぬらんわれはしも露とおきゐて思ひ明かしつ と言ひたるに、この女は、夜一夜(よひとよ)、ものをのみ思ひ明かして、ながめ居たるに、持て来たりける   白露のおきゐて誰を恋ひつらむわれは聞きおはず石上(いそのかみ)にて この女((「この女」、影印に「こ」の字なし。翻刻及び諸注釈書に指摘がないので、印刷ミスか。))の住みける所をぞ、「石上」とはいひける。 ===== 翻刻 ===== 又このおとこをとききにききならしつつ おもひいとん人そありけるさりけれと えいひつかさりけるほとにかの女はたこの おとこをききいとみてかかることをそまついひ たりける 心あたにおもひさためすふく風のおほ そら物ときくはまことか といひたるをあやしとはおもひなからいかて とおもふところよりさいひにきたれはよろこひ/14オ てかへし たたよひて風にたくへるしらくもの なをこそそらのものといふなれ 又女さくらの花のおもしろきにつけて まさくらはおかしかるへき物にそある わかよひさしくうつらすもかな おとこかへし ことしより春の心しかはらすはま さくられつつきみかてにつん とそいひたりけるををかしとや思ひけむ よそにてもいはんことをきかんなとそいひ/14ウ たるされはおとこいそききたれはものなと いひてその夜はよそなからかへりにけりあ したに女のもとより ふく風になひく草はとわれはおもふ よはにおく露のきもかれすな かかれはいとくちをしうちきられぬることと いひておとこかへし みやまなる松はかはらしかさしたのく さはとなのるきみはかるとも さてくれにきたりあけぬれはかへりぬかの 女のしそくおとこみつけてけりさておのかめに/15オ これよりいてていぬるは女しらすよにあらし よしかうしあらはこのいてぬるをとこのもと にいきてとはむとそいひけるようあひいふ なるにそありけるさりけれはそこにて とはんものそけさいてたまひつるを見て けりもしききてとははかうこたへよとていひたる ちはやふる神てふ神もしらるらん風の おとにもまたしらすらへ とてやりたるかへりこと しらかはのしらすともいはしそこきよみ なかれてよよにすまんとおもへは/15ウ となんありけるさてまたこのおとこいき て又あしたに女いひたり ことのはの人たのめなるうき露の おきていぬるそきえてこひしき かへし あはれあはれおきてたのむなしらつゆは おもひにくさのはやかるるとそ かくてありわたるにせうようせまほしか りけれはなにはのかたへそいきけるそのほと たひらかにものしたまへこれはたちまの国よ りもてきたるたにもかくといふものをやるとて/16オ かたときのわかれたにかくわひしきを といひたれは女 ゆきかへるまに我はけぬへし さらはなといひて又女 なにはかたあさみつしほのはやくき ねよとまはみのあはたえすけぬへし おとこかへし ひるしほのみちかへるまにけぬへくは なにかなにはのかたをたに見ん といひてなにはえもいかすあはれかりて ととまりぬさてこの心かはるやうにし/16ウ けれは あひみてののちそくやしさまさりけ るつれなりけるこころとおもへは とあるを見ておとこ みてのみそ我はもえます春山の よそのなけきをおもひつきつつ といらへとなを心さしのおろかなるやうに みえけれは女 いまよりはふしのけふりもよに たえしもゆるおもひのむねにたえねは をとこかへし/17オ くゆるおもひむねにたえすはふし のねのなけきと我もなりこそはせめ さてそのころさてそのころひさしくいかさ りけれはおとこいとほしかりてまたつとめ てかくなん うちとけてきみはねぬらん我はしも 露とおきゐておもひあかしつ といひたるにこの女はよひとよものをのみ おもひあかしてなかめゐたるにもてきたり ける 白露のおきゐてたれをこひつらん/17ウ われはききおはすいその神にて の女のすみけるところをそいそのかみとは いひける又このおなしをとこ女ともありけり/18オ