[[index.html|古今著聞集]] 飲食第二十八 ====== 632 文治のころ後徳大寺左大臣右大臣におはしける時徳大寺の亭に作泉を・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 文治のころ、後徳大寺左大臣((藤原実定))、右大臣におはしける時、徳大寺の亭に作泉をかまへられて、中御門左府((藤原経宗))へ案内申されければ、わたり給ひにけり。その時、三条左府入道((藤原実房))は((「は」は底本「に」。諸本同じ。文脈により訂正。))右大将、中山相国入道((藤原頼実))は別当にておはしける、おのおの扈従(こじゆう)し給ひけり。 亭主、手輿(たごし)を用意して、単(ひとへ)・狩衣着たる侍六人にかかせて、左府の車のもとへ迎へに参らせられたりけるを、しきりに逃れ申されけれども、あながちに申されければ、乗りて泉へわたり給ひけり。一条二位入道(能保)((藤原能保))、右衛門督にて侍りける、盃酌まうけて候はれけり((「候はれけり」は底本「候まうけられけり」。諸本により訂正。))。盃酌 数献ありて、行孝((源行孝))召し出だされて、縁に候して鯉切りたり。左府、行孝に示し給ひけるは、「鯉調備するやうをば存知したりとも、食ふやうをば知らじ。食ひて見せん」とて、ものし給ひけり。まことにやうありげにて、めでたかりけり。人々、目をすまさずといふことなし。 帰り給ひける時、馬牛など引き進ぜられけり。幕下((近衛大将の唐名。藤原実房))、大理((検非違使の唐名。藤原頼実))には、馬ばかりをぞ奉られける。かかる人々の会合、ありがたきことなり。 その次の日、北の院の御室((後白河法皇皇子、守覚法親王))、威徳寺の法印をもて、「寺中に候ひながらこのことを知らず。遺恨のことなり」と申されければ、御返事には、かたのごとく小泉をかまへて候ふに、左府をし入れ候ひき。入御候はば面目のよし、申されたりければ、やがて渡御ありけり。また盃酌あり。初献は御室取り上げさせ給ふ。二献は大臣(おとど)取り上げて、御室へ参らせられけり。御引出物には、御牛など参らせられけるとぞ。 ===== 翻刻 ===== 文治の比後徳大寺左大臣右大臣におはしけるとき 徳大寺の亭に作泉をかまへられて中御門左府へ 案内申されけれはわたり給にけり其時三条左府 入道に右大将中山相国入道は別当にておはしける 各扈従し給けり亭主手輿を用意してひとへ 狩衣きたる侍六人にかかせて左府の車のもとへ むかへにまいらせられたりけるを頻にのかれ申 されけれともあなかちに申されけれはのりて泉 へわたりたまひけり一条二位入道(能保)右衛門督にて/s494r 侍ける盃酌まうけて候まうけられけり盃酌 数献ありて行孝めしいたされて縁に候して 鯉きりたり左府行孝に示し給けるは鯉調備 するやうをは存知したりとも食やうをは しらし食て見せんとてものし給けりまことに様あ りけにてめてたかりけり人々目をすまさすといふ ことなし帰りたまひけるとき馬牛なと引進せら れけり幕下大理には馬はかりをそたてまつられ けるかかる人々の会合ありかたき事也其次日北 院御室威徳寺法印をもて寺中に候なから此 事をしらす遺恨のことなりと申されけれは御/s494l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/494 返事にはかたのことく小泉をかまへて候に左府を し入候き入御候はは面目のよし申されたりけれは やかて渡御ありけり又盃酌あり初献は御室 とりあけさせ給二献はおとととりあけて御室へまい らせられけり御引出物には御牛なとまいらせられ けるとそ/s495r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/495