[[index.html|古今著聞集]] 闘諍第二十四 ====== 503 仁平元年九月七日賀茂の行幸に樋口東洞院にて左大臣の移馬の居飼・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 仁平元年九月七日、賀茂の行幸に((近衛天皇の下鴨神社への行幸。))、樋口東洞院にて、左大臣((藤原頼長))の移馬(うつしうま)の居飼(ゐかひ)、雑人をはらひけるほどに、太刀を抜きたる者二人、大臣(おとど)の馬の前に走り来たりけるを、わづかに一丈あまりにやと見えけるに、随身左近府生秦公春、馬をうち入れて隔てけり。公春が下人三郎冠者、一人をはからめ捕りつ。今一人は走りかかりて、三郎冠者が頭を切りてけり。さりながらも、抱(いだ)ける者をば放たざりけり。公春が童力王丸、刀を抜きて、三郎冠者切りたる者をば突きてけり。突かれて逃げ走りけるを、公春が下人定方、からめ捕りつ。 犯人おのおの従者一人具したりける。一人をば舎人からめてけり。一人をば左近番長秦兼清が下人からめてけり。その主人二人、大夫尉為義((源為義))が郎等のよし、名乗りけれども、まことは皇后宮の侍の長源有治が郎従なりけり。すなはち随身をもて検非違使を召しけれども、遅かりければ、犯人(ぼんにん)四人、馬副(うまぞひ)の滝口にあづけられにけり。 かかりけるほどに、馬副具し給はざりければ、左大将((源雅定))のをぞ四人、借り出だされにける。件(くだん)の犯人四人、検非違使資持に賜びてけり。有治は大臣の前駆したりけるが、閑道より下の社へ((「下の社」は下鴨神社。「下の社へ」は底本「下社人」。諸本により訂正。))参りまうけたりけるが、このことを聞きて恐れをなして、まかり帰りにけり。 かの犯人等は、大和国と紀伊国との境に住みたりけるが、今日初めて都をば見たりける者なり。さて、かかる狼藉をも引き出だしたりけるにこそ。大臣は内覧の後、はじめて供奉し給ひけり。次の日、馬一疋・太刀一腰、公春を召して賜びてけり。有治をば宮の侍をのぞかれて、弓場(ゆば)に下されにけり。 ===== 翻刻 ===== 仁平元年九月七日賀茂行幸に樋口東洞院にて 左大臣の移馬の居飼雑人をはらひける程に太刀 をぬきたる物二人おととの馬の前にはしりきたり けるをわつかに一丈あまりにやと見えけるに随身 左近府生秦公春馬を打いれてへたてけり公春 下人三郎冠者一人をはからめとりついま一人ははしり かかりて三郎冠者か頭をきりてけりさりなからもいた ける物をははなたさりけり公春か童力王丸刀を ぬきて三郎冠者きりたる物をはつきてけりつかれ てにけはしりけるを公春か下人定方からめとり つ犯人各従者一人くしたりける一人をは舎人からめ/s403r てけり一人をは左近番長秦兼清か下人からめて けり其主人二人大夫尉為義か郎等のよし名のり けれともまことは皇后宮の侍長源有治か郎従也 けり則随身をもて検非違使をめしけれともをそ かりけれは犯人四人馬副の瀧口にあつけられにけり かかりける程に馬副くし給はさりけれは左大将の をそ四人かりいたされにける件犯人四人検非違 使資持にたひてけり有治はおととの前駆した りけるか閑道より下社人まいりまうけたりける か此事をききて恐をなして罷帰にけり彼犯人等 は大和国と紀伊国とのさかひにすみたりけるか/s403l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/403 けふはしめて都をは見たりける者也さてかかる狼 藉をもひきいたしたりけるにこそおととは内覧の のちはしめて供奉し給けり次日馬一疋太刀一 腰公春をめしてたひてけり有治をは宮の侍を のそかれて弓場にくたされにけり/s404r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/404