[[index.html|古今著聞集]] 好色第十一 ====== 322 後白河院の御所いつよりものどかにて近習の公卿両三人女房少々候ひて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 後白河院((後白河法皇))の御所、いつよりものどかにて、近習の公卿両三人・女房少々候ひて、雑談ありける時、仰せに、「身にとりて、いみじく思ひ出でたる忍びごと、何事かありし。かつは懺悔のため、おのおのありのままに((底本「ままに」なし。諸本により補う。))語り申すべし」と仰せられて、法皇より次第に仰せられけるに、小侍従が番に当たりて、「いかにも、ここにぞ優(いう)なることはあらんずる」など、人々申しければ、小侍従うち笑ひて、「多く候ふよ。それにとりて生涯の忘れがたき一ふし候ふ。げに妄執にもなりぬべきに、御前にて懺悔候ひなば、罪軽(かろ)むべし」とて、申しけるは、 「そのかみ、ある所より迎へに給はせたることありしに、すべておぼえぬほどに、いみじく執し侍りしことにて、心ことに、『いかにせん』と思ひしに、月冴えわたり、風肌寒きに、小夜(さよ)もやや更け行けば、千々に思ひくだけて、心もとなさかぎりなきに、車の音遥かに聞こえしかば、『あはれ、これにやあらん』と胸うち騒ぐに、からりとやり入るれば、いよいよ心迷ひせられて、人悪(わろ)きほどに、急ぎ乗られぬ。 さて、行き着きて、車寄せにさし寄するほどに、御簾(みす)の内より、匂ひことにて、なえらかに((「なえらかに」は底本「なつらかに」。諸本により訂正。))なつかしき人出でて、簾(すだれ)持て上げて降ろすに、まづいみじうらうたく((「らうたく」は底本「ちうたく」。諸本により訂正。))覚ゆるに、立ちながら衣(きぬ)ごしにみしと抱(いだ)きて、「いかなる遅さぞ((「遅さぞ」は底本「ををそさそ」。諸本により訂正。))」とありしことがら((「ことがら」は底本「ことなから」。諸本により訂正。))、何と申し尽すべしとも思え候はず。 さて、しめやかにうち語らふに、長夜も限りあれば、鐘の音(ね)もはるかに響き、鳥の音もはや聞こゆれば、むつごとまだ尽きやらで、朝置く露よりもなほ消えかへりつつ、起き別れんとするに、車さし寄する音せしかば、魂(たましひ)も身にそはぬ心地して、われにもあらず乗り侍りぬ。 帰り来ても、また寝(ね)の心もあらばこそ飽かぬ名残を夢にも見め、ただ世に知らぬ匂ひの移れるばかりを形見にて臥し沈みたりしに、その夜しも、人に衣置きかへられたりしを、朝にとりかへにおこせたりしかば、移り香の形見さへまた別れにし心の内、いかに申し述ぶべしとも思えず、せんかたなくこそ候しか」。 と、申したりければ、法皇も人々も、「まことに耐へがたかりけん。この上は、そのぬしをあらはすべし」と仰せられけるを、小侍従、「いかにもそのことはかなひ侍らじ」と深く否み申しけるを、「さては懺悔の本意せんなし」とて、しひて問はせ給ひければ、小侍従うち笑ひて、「さらば申し候はん。覚えさせおはしまさぬか。君の御位の時((後白河天皇の在位中。))、その年のそのころ、たれがしを御使にて召されて候ひしは。よも御あらがひは候はじ。申し候ふむねたがひてや候ふ」と申したりけるに、人々とよみにて、法皇は耐へかねさせ給ひて、逃げ入らせ給ひてけるとなん。 ===== 翻刻 ===== 後白河院御所いつよりものとかにて近習の公卿両三人 女房少々候て雑談ありける時仰に身にとりていみし くおもひ出たるしのひ事何事かありしかつは懺悔の ためをのをのありのかたり申へしと仰られて法皇より 次第に仰られけるに小侍従か番にあたりていかにも ここにそ優なる事はあらんするなと人々申けれは 小侍従うちわらひておほく候よそれにとりて生涯の 忘かたき一ふし候けに妄執にも成ぬへきに御前にて懺 悔候なは罪かろむへしとて申けるはそのかみある所よりむかへ にたまはせたる事ありしにすへておほえぬ程にいみしく 執し侍し事にて心ことにいかにせんと思しに月さえわたり/s221l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/221 風はたさむきにさ夜もやや深行は千々におもひくた けて心もとなさかきりなきに車の音はるかにきこ えしかはあはれこれにやあらんとむねうちさはくにからり とやりいるれはいよいよ心まよひせられて人わろき程に いそきのられぬさて行つきて車よせにさしよするほとに みすのうちよりにほひことにてなつらかになつかしき人 出てすたれもてあけておろすにまついみしうちうたく 覚ゆるに立なからきぬこしにみしといたきていかなるを をそさそとありしことなからなにと申つくすへしともお ほえ候はすさてしめやかにうちかたらふに長夜もかきりあれは鐘 の音もはるかにひひき鳥のねもはや聞ゆれはむつことまた/s222r つきやらてあさをく露よりも猶消かへりつつおきわ かれんとするに車さしよする音せしかはたましひも身 にそはぬ心ちして我にもあらすのり侍ぬ帰りきて も又ねの心もあらはこそあかぬなこりを夢にもみめたたよ にしらぬにほひのうつれるはかりをかたみにてふししつみ たりしにその夜しも人に衣をきかへられたりしを朝に とりかへにをこせたりしかはうつり香の形見さへ又わかれ にし心のうちいかに申のふへしともおほえすせんかたなく こそ候しかと申たりけれは法皇も人々もまことにたへ かたかりけんこのうへはそのぬしをあらはすへしと仰られける を小侍従いかにもその事はかなひ侍らしとふかくいなみ申/s222l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/222 けるをさては懺悔の本意せんなしとてしひてとはせ給 けれは小侍従うちわらひてさらは申候はんおほえさせをはし まさぬか君の御位の時その年のそのころたれかしを御使 にてめされて候しはよも御あらかひは候し申候むねたかひて や候と申たりけるに人々とよみにて法皇はたへかねさせ 給てにけいらせ給てけるとなん/s223r http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/223