[[index.html|古今著聞集]] 能書第八 ====== 291 法深房が持仏堂をば楽音寺と号して・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 法深房((藤原孝時))が持仏堂(ぢぶつだう)をば、楽音寺と号して、管絃の道場として、道をたしなみける輩(ともがら)絶えず入り来たる所なり。後には阿釈妙楽音寺と三字を加へて、小さき額を書きて、仏の帳(ちやう)にうちたるなり。阿弥陀((阿弥陀如来))・釈迦((釈迦如来))・妙音天((弁財天))などを安置して、常に法華経を転読して、音楽を供するゆゑに、かくは名付けたるなり。 件(くだん)の額、あつらへ申さんがために、建長三年八月十三日。綾小路三位入道行能((世尊寺行能・藤原行能))のもとへ向はれたりければ、禅門、日ごろ所労にて侍りけるが、そのころことに大事にて、立ち居ることだにかなはざりければ、臥したる所へ請ひ入りて、寝ながら対面せられけり。所労の体、まことに大事げなりけり。 腹ふくれて息だはしきとて、もの言はるるも分明ならざりけるが、からくして言はれけるは、「かかる病床へ入れ申して、寝ながら見参することは、その憚り侍れど、かつは最後の見参なり。御わたり、めづらしく嬉しく侍る。さるにても、来たり給へるゆゑ、何の料(れう)にて侍るぞ」と問はれければ、法深房、答へられけるは、「およそかくほどの御事にておはしましける、つやつや知り奉らず。いささか所望のこと侍りて詣でつれども、この御やう見参らせては、さらにそのこと思ひ寄るべからず。今、御平癒の時こそ申さめ」と言はれければ、禅門、「所労はさることなれども、ただ仰せられよ。たまたまの見参に、いかでか」と、しひて言はれければ、法深房、この額のことを言はれてけり。 その時、禅門、大きに驚きて、掌(たなごころ)を合はせ、涙を流して、「不思議のことに侍り」とて語られけるは、「先年、近江国より僧来たりて、申すこと侍りき。『あさましく古くなりたる寺あり。その寺を少しも崇め興隆すれば、魔妨げをなして、住僧も怖畏(ふゐ)をなし、田園をも損亡(そんまう)せしむること、年を追ひてはなはだしきなり。このことをまのあたり見れば、その恐れ侍れども、たちまちに荒廃せんこと悲しく侍れば、なほ興隆の思ひあり。額書きて給へ』と申し侍りしかば、すなはち書きて与へ侍りき。その後、四・五年を経て、件の僧、また来たりて申し侍りしは、『この額をうちてより、魔の妨げなし。住僧も安堵(あんど)し、寺領も豊饒(ほうぜう)なり。喜悦(きえつ)の思ひをなすとところに、『この額のゆゑなり』と夢想の告げあり。このことのかたじけなさに、参りて、ことのよしを申し入れ侍るなり』とて、掌を合はせて去り侍りにき。しかるに、去八日、この病につかれて臥したるに、暁に及びて夢に見るやう、天人と思しき人、額を持て来たりて、『この額の文字損じたる、直して給へ』とて、賜ぶと見れば、先年書きたりし近江国の額なり。げにも、文字少々消えたる所あり。夢のうちに直して奉りつ。天人、悦びつる気色にて、帰り給はんとするが、見返りて、『いま五ヶ日うちに、また額あつらへ((「あつらへ」は底本「あつく」。諸本により訂正。))奉るべき人あり。必ず書き給ふべし。一仏浄土の縁たるべきなり』とて去りぬと思ふほどに、夢覚めぬ。このことによりて、心のうちに日ごとにあひ待つところに、今日五ヶ日に満つるなり。しかるを、この額あつらへ給ふ、これ一仏土の縁なり。やがても書き侍るべきに、この額におきては精進して書き侍るべし((「書き侍るべし」は底本「書るへし」。諸本により訂正。))。いかにも、これ書き果てんまでは、よも死に侍らじ((「侍らじ」は底本「侍よし」。諸本により訂正。))」とて、泣く泣く随喜せられけるなり。 「そもそも天下に、道にたづさはる人多けれども、御辺(ごへん)の道におきては、また対揚(たいやう)なし。それにつきては、わが道こそ侍りけれ。そのゆゑは、このたび閑院殿遷幸に、年中行事の障子を書くべきよし、宣下((後深草天皇の宣下))せられたりしを、入道はこの所労の間かなはず。経朝朝臣((世尊寺経朝。行能の子。))は((「経朝朝臣」は底本「経朝朝臣へ」諸本により訂正。))訴訟によりて関東に下向す。これによりて、古き障子を用ゐらるべきよし、その沙汰ありけるを、武家より、『その儀しかるべからず。いかやうなりとも、かの家の子孫書き進(まゐ)らすべきなり』と申すによりて、経朝朝臣が子、生年九歳の小童、かたじけなく勅定を承りて、書き進らせをはんぬ。これをもてこれを思ふに、御辺の道と、入道が道とこそ並ぶ人なかりけれと、自讃せられ侍るなり。世に管絃者多かれども、誰(たれ)か御辺と等しき人ある。手書きまた多けれども、朝の御大事にあふも、ただこの家((世尊寺家))ばかりなり。されば、かかる夢想もありて、一仏土の縁となり申すべきにこそ」とて、感涙をたるることかぎりなし。 このこと、さらにうけることにあらず。法深房語り申されし上、三位入道、このことを記したる状に判を加へて法深房のもとへ送りたる状を書き侍るなり。 ===== 翻刻 ===== 法深房が持仏堂をは楽音寺と号して管絃の 道場として道をたしなみける輩たえす入来所也 後には阿釈妙楽音寺と三字をくはへてちいさき額 を書て仏の帳にうちたる也阿弥陀尺迦妙音天なと を安置して常に法花経を転読して音楽を供す る故にかくは名付たる也件の額あつらへ申さんかために 建長三年八月十三日綾小路三位入道行能のもとへむかはれ/s202l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/202 たりけれは禅門日来所労にて侍けるか其比ことに 大事にて立ゐる事たにかなはさりけれはふしたる 所へ請入てねなから対面せられけり所労の体誠に 大事けなりけり腹ふくれて息たはしきとて物いは るるも分明ならさりけるかからくしていはれけるはかかる 病床へ入申てねなから見参する事は其憚侍れとかつは 最後の見参なり御渡めつらしくうれしく侍るさるにて もきたり給へるゆへ何の料にて侍そととはれけれは 法深房こたへられけるは凡かく程の御事にてをはしまし けるつやつやしりたてまつらすいささか所望のこと侍てまう てつれともこの御やう見まいらせては更に其事思よる/s203r へからすいま御平喩の時こそ申さめといはれけれは 禅門所労はさる事なれともたた仰られよたまたまの見 参にいかてかとしゐていはれけれは法深房この額の事 をいはれてけり其時禅門大に驚て掌をあはせ涙を なかして不思儀の事に侍りとてかたられけるは先年 近江国より僧来て申事侍き浅猿くふるく成たる 寺あり其寺をすこしもあかめ興隆すれは魔妨をな して住僧も怖畏をなし田園をも損亡せしむる事 年を追て甚しき也此事をまのあたりみれはそのおそ れ侍れともたちまちに荒廃せん事かなしく侍れは猶 興隆の思あり額書て給へと申侍しかは則書てあたへ/s203l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/203 侍き其後四五年をへて件僧又来て申侍しは此額 をうちてより魔の妨なし住僧も安堵し寺領も 豊饒なり喜悦の思をなす処にこの額のゆへなりと 夢想の告あり此事のかたしけなさにまいりて事 のよしを申入侍也とて掌を合てさり侍にきしかる に去八日此病につかれてふしたるに暁に及て夢に みるやう天人とおほしき人額を持て来てこの額の 文字損したるなをして給へとてたふとみれは先年書 たりし近江国の額也けにも文字少々消たる所あり 夢のうちに直してたてまつりつ天人悦つる気色にて 帰り給はんとするか見返ていま五ヶ日うちに又額あつく/s204r たてまつるへき人あり必書給へし一仏浄土の縁たる へきなりとてさりぬと思程に夢さめぬこの事によ りて心のうちに日ことに相待処にけふ五ヶ日に満也 しかるを此額あつらへたまふこれ一仏土のえん也やかて も書侍へきにこの額にをきては精進して書る へしいかにもこれ書はてんまてはよも死侍よしとて なくなく随喜せられける也抑天下に道にたつさはる 人おほけれとも御辺の道にをきては又対揚なし それにつきては我道こそ侍けれ其故は今度閑院殿 遷幸に年中行事障子を書へきよし宣下せられ たりしを入道は此所労のあいたかなはす経朝々臣へ訴/s204l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/204 訟によりて関東に下向すこれによりてふるき障子を 用らるへきよし其沙汰ありけるを武家より其儀不可然 いかやうなりとも彼家の子孫書進へき也と申によりて 経朝々臣か子生年九歳の小童忝く勅定をうけ 給て書進了これをもて是を思に御辺の道と入道か 道とこそならふ人なかりけれと自讃せられ侍也世に 管絃者おほかれともたれか御辺とひとしき人ある手 かき又おほけれとも朝の御大事にあふもたたこの家 はかりなりされはかかる夢想もありて一仏土の縁と なり申へきにこそとて感涙をたるる事限なし此 事更にうける事にあらす法深房かたり申されし/s205r うへ三位入道此事を記したる状に判を加て法深房 のもとへをくりたる状を書侍なり/s205l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/205