[[index.html|古今著聞集]] 和歌第六 ====== 214 鳥羽の宮天王寺別当にてかの寺の五智光院におましありけるとき鎌倉の前右大将・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 鳥羽の宮((後白河天皇皇子、定恵。))、天王寺((四天王寺))別当にて、かの寺の五智光院におましありけるとき、鎌倉の前右大将((源頼朝))参ぜられたりけり。三浦十郎左衛門義連((三浦義連・佐原義連))・梶原景時ぞともには侍りける。 御対面の後、退出の時、尩弱(わうじやく)の尼一人出で来たり。右大将に向ひて、ふところより文書を一枚取り出だしていはく、「和泉国に相伝の所領の候ふを、人に押し取られて候ふを、沙汰し候へども、身の尩弱に候ふによりてことゆかず、たまたま君御上洛(しやうらく)候へば、申し入れ候はんとつかまつり候へば、申しつぐ人も候はねば、たた直に見参に入れ候はんとて参りて候ふ」とて、その文書をささげたりければ、大将みづから取りて見給ひけり。 「文書のごとく、一定相伝の主にてあるか」と問はれければ、「いかでか偽りをば申し上げ候ふべき。御尋ね候はんに、さらに隠れあるまじ」と申しければ、義連に、「硯尋ねて参れ」と仰せられて、尋ね出だして参りたりければ、墨を磨りて筆染めて、うち案じて、わが持ち給ひたりける扇に、一首の歌を書き給ひける、   いづみなる信田(しのだ)の杜(もり)のあまさぎはもとの古枝(ふるえ)に立ち帰るべし かく書きて、義連にこれに判加へて((「加へて」は底本「くはて」。諸本により訂正。))、尼に取らせよとて投げつかはしたりければ、義連、判加へて((「加へて」は底本「くはて」。諸本により訂正。))尼に賜びてけり。年号月日にも及ばず、右大将殿自筆の御書き下しなれば、子細にや及ぶ。 もとのごとく、かの尼領知しけるとて、その後、右大臣家((源実朝))の時、件(くだん)の尼が娘、この扇の下文(くだしぶみ)をささげて沙汰に出でて侍りけるに、年号月日なきよし、奉行言ひけれども、かの自筆その隠れなきによりて、安堵しけり。 「件の扇、檜の骨ばかりは彫(ゑ)りて、そのほかは細骨にてなん侍りける。まさしく見たる」とて、人の語り侍りしなり。 ===== 翻刻 ===== 鳥羽宮天王寺別当にて彼寺の五智光院に御座あり けるとき鎌倉前右大将参せられたりけり三浦十郎左衛門 義連梶原景時そ共には侍ける御対面の後退出の時尩弱 の尼一人いてきたり右大将に向てふところより文書を一枚とりいた して云和泉国に相伝の所領の候を人にをしとられて候をさた し候へ共身の尩弱に候によりて事ゆかす適君御上洛候へは申 入候はんと仕候へは申つく人も候はねはたた直に見参に入候はん/s151l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/151 とてまいりて候とてその文書をささけたりけれは大将みつから とりてみ給ひけり文書のことく一定相伝の主にてあるかと 問はれけれはいかてか偽をは申あけ候へき御尋候はんにさらに かくれあるましと申けれは義連に硯たつねてまいれと 仰られて尋出してまいりたりけれは墨をすりて筆 染てうちあんしてわかもち給ひたりける扇に一首の哥を書 給ける  いつみなるしのたの杜のあまさきはもとのふるえに立かへるへし かくかきて義連にこれに判くはて尼にとらせよとてなけつか はしたりけれは義連判くはて尼にたひてけり年号月日にも およはす右大将殿自筆の御書下なれは子細にやおよふ/s152r もとのことく彼尼領知しけるとて其後右大臣家の時件尼か むすめこの扇の下文をささけて沙汰に出て侍けるに 年号月日なきよし奉行いひけれとも彼自筆其かくれ なきによりて安堵しけり件扇檜骨はかりはゑりて其 ほかは細骨にてなん侍けるまさしくみたるとて人の語侍し也/s152l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/152