[[index.html|古今著聞集]] 和歌第六 ====== 166 同じき二年この歌合のことを広田大明神海上よりうらやませ給ふよし・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 同じき二年、この歌合(([[s_chomonju165|165]]の住吉歌合を指す。))のことを、広田大明神、海上よりうらやませ給ふよし、両三人同じやうに夢に見奉りけり。道因((藤原敦頼))、そのよしを聞きて、また人々の歌を乞ひて合はせけり。題、「社頭の雪」・「海上の眺望」・「述懐」、かくぞありける。これも俊成卿((藤原俊成))判しけり。 「述懐」の歌に、二条中納言実綱卿((藤原実綱))左大弁の時、宰相教長入道((藤原教長))につかひて、   位山(くらゐやま)上れば下るわが身かな最上川(もがみがは)漕ぐ舟ならなくに かの卿、四位・五位の間、顕要(けんえう)の職を経ず、舎弟二人に越えられて沈淪(ちんりん)せられけるが、仁安元年十一月八日、蔵人頭に補して、同じき二年二月十一日、参議に任じて右大弁を兼ず。同じき三年八月四日、従三位に叙す((「叙す」は底本「釼す」。諸本により訂正。))。嘉応二年十八日((諸本同じ。「正月十八日」とあるべきところ。))、左大弁に転ず((「転ず」は底本「伝す」。諸本により訂正。))。昔の沈淪の恨みも散ずるほどに、かくうち続き昇進せられたるに、この歌詠まれたるは、いかに思はれたるにか。 かかるほどに、同じき三年正月六日、実守中納言((藤原実守))、宰相中将にておはしけるが、坊官の賞にて正三位せられけるに、左大弁越えられにけり。「この歌ゆゑにや」と、時の人沙汰しけるとぞ。 まことに詩歌の道は、よくよく思慮すべきことなり。昔もかやうのためし多く侍るにや。 同じ歌合に、「社頭の雪」を女房佐詠み侍りける。   今朝見れば浜の南の宮つくりあらためてけり夜半(よは)の白雪 この後、また浜の南の宮、焼け給ひにけり。これも歌の徴(しるし)にや。 かの実綱中納言は、弟の実房((藤原実房))・実国((藤原実国))などに越えられ給ひける時は((「越えられ給ひける時は」は底本「越給けるは」。諸本により訂正。))、   いかなればわが一連(ひとつら)の乱るらむうらやましきは秋の雁金 かやうに詠み給ひける、いとやさしくて、恨みはさこそ深かりけめども、誠信((藤原誠信))の舎弟斉信((藤原斉信))に越えられて、目の前に悪趣の報ひをかため給ひけるには似ずや(([[:text:jikkinsho:s_jikkinsho09-04|『十訓抄』9-4]]参照。))。 ===== 翻刻 ===== 同二年此歌合の事を広田大明神海上よりうらやま せ給よし両三人おなしやうに夢にみたてまつりけり道 因其よしをききて又人々の哥をこひてあはせけり題 社頭雪海上眺望述懐かくそありけるこれも俊成卿判し けり述懐の哥に二条中納言実綱卿左大弁のとき宰相 教長入道につかひて  位山のほれはくたる我身かなもかみ川こく舟ならなくに 彼卿四位五位のあひた顕要職をへす舎弟二人に越られ て沈淪せられけるか仁安元年十一月八日蔵人頭に補して 同二年二月十一日参議に任して右大弁を兼す同三/s123l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/123 年八月四日従三位に釼す嘉応二年十八日左大弁に 伝す昔の沈淪の恨も散する程にかくうちつつき昇進 せられたるに此哥よまれたるはいかに思はれたるにかかかる程 に同三年正月六日実守中納言宰相中将にておはし けるか坊官賞にて正三位せられけるに左大弁越られに けりこの哥故にやと時の人沙汰しけるとそまことに 詩哥の道はよくよく思慮すへき事也昔もかやうのためし おほく侍にや同哥合に社頭雪を女房佐よみ侍ける  今朝みれは浜の南の宮つくりあらためてけり夜はの白雪 こののち又浜南宮焼給にけりこれも哥の徴にや 彼実綱中納言はおとうとの実房実国なとに越/s124r 給けるは  いかなれはわかひとつらのみたるらむうらやましきは秋の雁金 かやうによみ給けるいとやさしくて恨はさこそ深かりけめとも 誠信の舎弟斉信に越られて目のまへに悪趣の報をかた め給ひけるにはにすや/s124l http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/124