====== 藤原定家 ====== ふじわらのていか・ふじわらのさだいえ(1162〜1241) [[鎌倉時代]]初期の歌人・歌学者・古典学者。法名は明静、京極中納言([[唐名]]で京極黄門) ともいう。 父は[[藤原俊成]]、母は藤原親忠女([[美福門院加賀]])、兄に[[藤原成家]]、姉に[[建春門院中納言]]がおり、子に[[藤原為家]]がいる。 [[勅撰和歌集]]である[[新古今和歌集]]・[[新勅撰和歌集]]の選者であるほか、[[私撰和歌集]]、[[小倉百人一首]]の選者でもある。自選家集([[私家集]])に『[[拾遺愚草]]』。 [[散文]]の著作も多く代表的なものとして[[歌論]]書に『[[近代秀歌]]』・『[[詠歌大概]]』・『[[毎月抄]]』、[[物語]]研究に『[[源氏物語奥入]]』、[[擬古物語]]に『[[松浦宮物語]]』、[[日記]]に『[[明月記]]』がある。 古典学者としての定家は、上記の歌論・物語研究のほか、晩年、歌書・物語・日記をはじめとした古典籍の筆写、校訂をし多くの[[写本]]を残した。 定家の書は、自身『[[明月記]]』寛喜三年八月七日条に「其字如鬼」というように悪筆を自認していたが、独特の筆致から後に[[定家流]]としてもてはやされ、[[烏丸光広]]・[[小堀遠州]]・[[松平不昧]]らの書にも影響を与えた。