====== 上田秋成 ====== うえだあきなり(1734〜1809) ===== 経歴 ===== [[江戸時代]]後期の小説作者、[[国学]]者、歌人、俳人。俳号は無腸。 享保十九年(1734)、大阪に生まれる。四歳のとき、大阪堂島の紙油商嶋屋の上田茂助の養子となり、二十七歳で植山たまと結婚、翌年養父の死去にともない嶋屋を継ぐことになる。 商売の傍ら「和訳太郎」の筆名で、明和三年(1766)三十三歳で[[浮世草子]]の処女作『諸道聴耳世間狙』を、翌年には『[[世間妾形気]]』を刊行する。 さらに翌年、三十四歳で、[[読本]]『[[雨月物語]]』を脱稿、これは安永五年(1776)四月、秋成四十三歳のときに刊行された。この間、秋成三十八歳のときに堂嶋で火事があり、嶋屋は焼け家財を失なったため、医学を学び『雨月物語』刊行の年、大阪の尼崎一丁目で開業した。 医業の傍ら[[国学]]を究めると同時に、[[与謝蕪村]]らの一門とも交流を深め、俳書に句を載せるようになっただけでなく、四十一歳のとき蕪村の序を付した俳諧の[[切字]]について論じた『也哉抄』を書き、四十四歳では、[[西山宗因]]の句集『俳諧発句むかし口』を編集した。 秋成は次第に国学研究の傾向を深め、秋成五十三・四歳の時、天明六年〜七年(1786〜1787)[[本居宣長]]との古代国語の[[音韻]]と[[記紀]]の日神についての論争を通じてさらに国学に傾倒するようになる。この書簡の応酬による論争は宣長編による『[[呵刈葭]]』によって知ることができる。このころ、俗文学としては風刺小説『[[書初機嫌海]]』を書く。 天明七年、五十四歳のときに、秋成は大阪市中を去って、郊外の淡路庄村へ引越す。二年後の寛政元年(1789)、妻の母、養母が亡くなり、妻のたまは出家、瑚璉尼と名乗るようになる。さらに翌年、五十七歳のときに左眼を失明。その間、『[[癇癖談]]』を執筆、寛政三年に脱稿する(刊行は没後)。 寛政五年六月、六十歳で京都の知恩院門前袋町へ出る。多くの文人と交流し、多数の国学関連の著書を執筆。寛政九年十二月、瑚璉尼五十八歳で死去。 瑚璉尼の死の直後、寛政十年四月下旬、ついに秋成は全盲となるが、播磨の眼科医谷川氏兄弟により、以前から見えなくなっていた左目が見えるようになる。 その後も執筆を続けるが、文化四年(1807)秋成七十四歳のの秋、南禅寺山内の庵の古井戸に、それまでに書いた著書をすべて捨ててしまう。『雨月物語』と並ぶ読本の傑作『[[春雨物語]]』はこの後書かれ、[[写本]]として伝わった。さらに最晩年には、[[随筆]]『[[胆大小心録]]』を著し、文化六年(1809)六月二十七日、七十六歳で門人羽倉信美の家で没した。 ===== 参考サイト ===== * [[https://spreadsheets.google.com/pub?key=0AlEqJppkBQsXdFpxV2tpcjB0b1AyX3hFcGI5a0Z0bWc&output=html|上田秋成研究文献目録(木越研究室)]] * [[http://kigoshi.sophia.labos.ac/ja/page/p4.html|秋成全集(木越研究室)]] * [[http://yatanavi.org/textserch/index.php/search/tag/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E7%A7%8B%E6%88%90|電子テキスト]] {{tag>江戸時代 上田秋成 国学 俳諧 読本}}